第18話「それは舟屋の美学」(1)


 七月七日。

 午前八時——新宿。

 その時まだその男は――というよりは女性なのだろうか——ぐうすかと眠っていた。というのも、仕事の都合上、朝の四時まで酒をしこたま飲んで、話していたものだから、この時間はいつも眠っているのである。


 短い金髪。実に男らしい顔。左眉から鼻筋を通って右頬に向かって肉が抉れている。それはまだ組の者として、幹部になる以前にドンパチをしたころの名残であった。それから干支が一回りも二回りもするほど時は流れているが、その傷は治ることなく、さも忘れることなかれと言うがままにその場にあり続けていた。


 野太い声でぐううと唸ると、枕で鼻先をこすって顔を動かした。ぐるりと仰向けになる。まだ起きる気配はない。淡い桃色のネグリジェに身を包み、はだけた胸元からはたくましい胸板が覗く。サイズは特注のようで、二メートルほどの身の丈に見合うか、それ以上の筋肉量を備えた体を余裕を持って包んでいる。特に上腕二頭筋のところなんてワインボトル二本分ほどの幅をしていたおかげでぎりぎり、ゆったりと着ることが出来ている。


 当の本人である、今眠りこけて男の顔でぐうすかと豪快ないびきをかき始めた赤川藤三郎あかがわとうざぶろうこと源氏名『ゆりたん』こと通称『ママ』は、夢を見ることもなく、ただただ体を休めていた。


 昨日はさすがに飲み過ぎた。記憶が飛ぶほど飲んだわけではないが、それでも体がやめとけと酒を拒絶するくらいには飲んだ。しこたま飲んで、たらふく食べて、無尽蔵にしゃべりつくした。


 旧友と会っていたのだ。五十を過ぎた赤川の、竹馬の友である十津川がたまたま赤川が立つ店にふらっと寄ってきたのである。


 昨日、夜も深まった二十二時過ぎ。ノルニルの少し重たい木製の扉が開いて、白髪交じりの髪を短くオールバックにまとめた恰幅の良い男が入ってきた。


 いらっしゃい、といつものように赤川は挨拶をして、そちらを見て、あら、と小首を傾げた。どこかで見たことがある気がする。どこか、どこだったか。


 お客をそうやって品定めするように見て怪訝に思われても困るので、すぐに笑顔になって、空いている席を勧めた。入り口から近い、カウンターの左から三つめの席に男は座った。


 しかし気になる。絶対に見たことがあるはずだ。けれどもあんな老年に近い、自分と同世代の男はいくらでも会ってきたし、いつだったかこの店にふらりと立ち寄って、久々にやってきただけなのかもしれない。


「何飲みます?」


 いつまでも待たせるのも失礼なので赤川が尋ねると、白髪交じりの男は、ううんと唸って、


「今日はせっかくだし、日本酒でも飲もうかな。あと、ここはつまみもあるかい?」

「ありますよ。日本酒は何にしましょう? 私が呑兵衛だからびっくりするほど品揃えはいいですよ」


 ふふふ、と赤川は笑って、カウンターの後ろにある棚にずらりと並んだボトルをさらりと手で示した。


「そうだなあ。安芸虎にしよう。地元なんでね。つまみは冷奴で」


 腕を組んで白髪交じりの男はずらりと並ぶボトルを見渡して、その中から安芸虎を見つけたときに、おっと目を開かせてそう言った。


「地元なんですか? 私も地元は高知ですよ?」

「ほう? お姉さんも高知なが?」

「お姉さんらぁて口が上手いわぁ。私は安芸市の出なんやけど、ええと」


 なんて呼んだらいいのかしらと顎に人さし指をあてて首を傾ける赤川を見て、白髪交じりの男は、久しぶりに同郷者に会ったことが嬉しいようで顔を輝かせて、

「ああ、俺は十津川と言うんだ」と名乗った。


「十津川?」


 十津川、という珍しい苗字にあれ、と赤川は記憶の海を泳ぎ始めた。簡単にたどり着くことのできる答えがある。


 なんだ、と十津川は目をぱちくりしながら赤川を見やる。


「ああ、十津川だ」

「十津川、省一しょういち?」

「そうだ? そうだけど、なき俺の名前知っちゅうが?」

「しょうちゃん、私よ、藤三郎!」

「藤三郎? 赤川? 藤三郎!?」

「そうよ、赤川の藤三郎!」


 手を取り合うほどに近づいて、それから十津川はその身を背もたれにのけぞらせた。ぶんぶんと首を振って、違う違うと言い切った。


「嘘だあ! 俺の知っちゅう藤三郎はほがなキラキラなスパンコールなんぞ着らん!」


 それに赤川も負けじとぶんぶんと首を振る。カウンターに身を乗せて、ぐあんと前に出た。


「着るわ! 今着てるちや! 見てよ、ちゃんと!」

「見てるちや! 見た上で言うんだ! 藤三郎はいつも上半身は逞しい筋肉にタンクトップ着てたろうが! 春夏秋冬問わずにいつもタンクトップ。あほかと思うてたけど、いや、待てよ。これもこれでアホっちゃアホか」

「その納得の仕方は少し腹が立つけれど、まあ納得してくれたならいいわ」

「秘密基地にあった俺らの宝物は?」

「実話雑誌『ヌードとグラマー特集号』。あんたの親父からくすねてきたやつ」

「藤三郎だ……」

「やきさっきからそう言うてたがやき……」


 もう、と赤川は安芸虎のボトルを取り出して、グラスと一緒に十津川の前に差し出した。慣れた手つきでさささと冷奴の用意をしてそれもすぐに十津川に差し出す。


「にしても久しぶりに御国言葉を使ったわ。よくこの店を見つけたわね」

「ああ、後輩がここの店によく来るんだと。しかしそれよりお前の変貌っぷりに目が回る」

「何よ、そんなにこのドレスが気に入った」

「逆だよ。俺には痛い」


 空のちいさなグラスにとぷとぷと音を鳴らしてボトルから安芸虎が注がれる。すぐになみなみに注がれた。


 どうも、と頭を軽く下げて十津川はぐいっとグラスをあおった。


「いつからだ」

「何が?」

「いつからそんな恰好をしてる」

「どれくらい前かしらねえ。もう十年になるかしら」

「組を抜けた頃か」

「……それは知ってたのね」


 十津川がふんと鼻を鳴らした。空になったグラスにもう一度赤川が酒を注ぐ。ありがとう、とグラスを赤川に掲げて、一口口に含んだ。ごくりと喉を鳴らして飲み込む。


「お前だって、俺のことを知ってはいたろう」

「そうね、でも私が知っていたのはあんたが警察官になった、ということだけよ。というか、だったらなんでさっき私に気付かなかったのよ!」


 信じらんない! と憤慨して赤川は自分用に安芸虎のボトルを取り出してグラスに注いで飲み始めた。


「あのなあ、そんな人相が変わっちまうくらい濃い化粧をした化物をガキの時分の親友となんざ思わねえよ」


 赤川が口に含んだ安芸虎をぶしゃりと噴き出す。口元をハンカチを取り出して口紅が落ちないように気をつけてふき取った。


「ば、ば、なんて言った!?」

「自分で今言いそうだったじゃねえか。化物だ化物」

化物かぶつかしら」

「そう言っても結局化物じゃねえか」

「……気付いてくれなかったのはちょっとショックだわ」


 むすりと頬を膨らませて横目で十津川を見やると、十津川は深くため息を吐いた。


「いい歳してそんな恰好してるとは思わねえよ。俺が見た最後のお前の顔写真知ってるか?」

「おおよそ見当はつくわ」

「ギラギラした目に、その顔には袈裟斬りで斜めに伸びた大きな傷。兼信会きっての武闘派で、その異名は『鬼殺し』。今のお前の雰囲気とはまったく違う」

「やめてよ、恥ずかしいじゃない。鬼殺しなんて、まるで桃太郎よね。私は金太郎の方が好きなの」

「だったら熊殺しか?」

「またそうやって。揚げ足取りは変わらないわね。髪は大分白くなったけど」

「お前の髪はやたら金色に光ってるな。流行りか?」

「そういうところもよ。いつもいつも爺臭い」

「もう俺も爺なんでな」

「え、お孫さんいるの?」

「ああ、こないだ生まれた」

「知らなかった……じゃあ私もおばあちゃんかあ」

「お前の孫ではねえよ」

「いいじゃない別に。減るもんじゃなし」


 そんなこんなで。そんな他愛もない話を繰り広げ、その最中にも赤川は器用に他の客たちをもてなし、気付けば閉店の時間になっていた。


「……もうこんな時間か」


 十津川が腕時計をちらりと見て、大きくあくびをした。


「明日、ていうかもう今日ね。休みなの?」

「ああ、非番だ」

「そうなのね。私のところで貴重な時間を過ごしてよかったの?」

「家に帰っても独りだしな」


 水滴ほどの、グラスに残った酒を飲み込む。


「あら、逃げられた?」

「いや、少し前に死んじまったよ」


 十津川は深く、深く息を吐いた。深く息を吐いて、首をくるりと回した。宙を見て、ああ、と声を漏らした。


「時間なのかもしれねえが、出来ればもう一杯もらえないか」


 静かに赤川は頷いて、赤川のお気に入りのボトルのふたを開けた。新しくグラスを出して、氷をひとつ入れる。ころんとグラスが鳴って、氷塊の端が微細に砕けた。ウイスキーを注ぐ。微細に砕けて出来た薄氷はアルコールに溶けていった。こぷこぷと注がれたスコッチウイスキーにかすかに氷塊が浮いた。ちりんとグラスに氷が当たった。


「気の毒だったわね。失礼なことを聞いてしまってごめんなさい」

「気にすんなよ。お前は知らなかったんだ。俺がぽろっと漏らしちまっただけだ」


 寂しそうに十津川はグラスを傾けて、それを眺めていた。


「また今度飲みに来てよ。自分で言うのもなんだけれど、ここはいいお店だし、いいお酒を用意して待ってるから」


 かすかに十津川は笑った。一気にウイスキーを飲み干して、ことりとグラスをカウンターに置いた。


「ママが美人なら考えた」


 会計分に懐から一万円札を取り出してカウンターに置いて、十津川は席を立った。


「ちょっと、おつりがまだよ」

「今度来たときの分の先払いだ。んじゃな」


 片手を上げて、十津川はノルニルから去って行った。


「まったくもう、素直じゃないのも変わらない」


 少しばかり嬉しそうに赤川はグラスを片づける。

 その途中で、熱のこもった目つきで十津川が座っていた席を眺めた。

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