第19話「それは舟屋の美学」(2)

 昔の親友のことを何も知らずに今の今まで過ごしてきた。それは相手も同じく、自分がこの宵捕町に店を構えてママをやっていることを知らなかったのだから、お互いさまとしても、あの瞬間の十津川の寂しげな表情に心が痛んだ。


 自分には配偶者と呼べる存在がないので、彼の心痛は計り知れない。今なお尾を引いているかもしれないし、その可能性の方が高いだろう。


 赤川は全ての片づけを終えて、独りカウンターテーブルに座ってぼうっと考え事をする。


 どんな人だったのだろう。旧友が愛した女はどんな女だったのだろう。

 もし、私がこんな生き方をしていなかったら、彼の辛いときにそばにいて、励ましてあげることが出来たのではないだろうか。


 もしかしたら、彼の嬉しいときも、悲しいときも、いろんな感情を傍にいて、共有できたのではないだろうか。


 そんなことを思いながら、カウンターにうつ伏せになる。


 気付けば眠ってしまっていたようで、少し頭痛がした。いてて、と声を漏らすと、赤川の前に水が置かれた。


 そちらを見ると、中折れ帽を被って、顎鬚を蓄えた、長身痩躯の男が咥え煙草をして立っていた。


「的屋じゃない。どうしたの」

「俺が聞きてえよ。あんたが戸締りもせずに居眠りしちまうなんて一体何があった」


 的屋が腕時計を見て、もう五時だぞ、と眉をひそめた。


「ちょっと飲みすぎちゃったのかしら。ていうか、私、戸締りもせずに眠っていたのね。いけない、何か盗まれたりしてないかしら」

「鬼が寝てるんだ、びびって誰も何も盗りゃしねえだろ」


 大きくあくびをして、的屋は咥えていた煙草に火をつけた。よく見ると、的屋の席の前のカウンターテーブルには灰皿があって、吸い殻で小高い丘が出来ていた。


「もしかして、私が目覚めるまで見ててくれたの?」

「ああ、まあそうだな。そういうことになる」

「襲ってないわよね?」

「……鏡で自分の容姿を確認してからそういうことは言うんだ。誰が好き好んでジジイだかババアだかわからねえバケモンと寝たがるんだよ」

「あんたまでそういうこと言う?」

「他にも誰かに言われたのか?」

「まあ、ちょっとね」


 ふうん、と的屋は興味なさげに紫煙を吐き出した。


「飯でももらおうと思ってきたが、それどころじゃねえみたいだな」

「ああ、大丈夫よ。ちょっと待って」


 と、赤川が立ち上がろうとして、それを的屋が制した。

 赤川の肩にかけられていたブランケットをもう一度かけなおす。


「今日はいらねえ。それより何があった」

「あんたはこういうところは気が利くのよね」

「ブランケットのことなら当然のことだろ。そうじゃなくてよ、何があった」

「ちょっとね、ちょっと。色々思っちゃって」

「店を最後に出ていった客か?」


 灰皿に煙草を押し付けて火を消した。


「あんたいつからいたの?」

「その客が出ていくときからだ」

「なんで言わないのよ。ていうか、なんであんたは閉店してから来るのよ」

「私用だからな」


 悪びれもせず、的屋はそう答えた。


「私はあんたに用がないんだけどね」


 もう、と憤慨しながら赤川は目の前に置かれた水を飲む。的屋は首をぐるりと回してから、煙草を取り出して火をつけた。じゅじゅじゅと葉が燃える。


「あんたも煙草やめないの?」

「これも俺のアイデンティティだ。煙草を吸わない俺なんて、トンカツのねえカツカレーみたいなもんだ」

「それってただのカレーライスじゃない。まともじゃない」

「ああ、俺には銃の腕があるからな。でも、それだけじゃあパンチが足りねえ」

「なにそれ。なんにせよ、早死にするわよ? あんた食生活だって不規則なんだし」

「大丈夫だ。アニメ化するまで死なねえ」

「あんた、そんなこと言うキャラだったかしら」

「俺だってたまにゃ冗談くらい言うさ」


 軽くウインクをして的屋はにやりと笑った。彼なりに赤川のことを和ませようとしているようだった。赤川も少しだけ口角が緩んだ。緩んで、鼻を鳴らして、視線を手元に落とした。


 それから何か言おうとして、赤川が口を開く。けれども言葉を選び損ねたようで、そのまま口を閉じた。きゅっと唇を結んで、コップの中にわずかに残る水を見た。コップをゆっくりと傾けるので、赤川の顔が歪んだように映らなくなった。


 何度か、ぐるぐるとコップを回して、的屋が三本目の煙草を咥えたところで、赤川がようやく声を出した。それまで、赤川が話し出すまで、的屋は赤川の隣の席に腰を落ち着かせて、ゆっくりと煙草をくゆらせて、静かに待っていた。


「今日、親友だった人が来たのよ」

「それがあのおっさんか」

「そう。それがあのおっさん。でもね。あのおっさんは警官で、私とは相対するところにいるの。なんか、今までそんなに思ったことはなかったんだけれど、少し、引け目を感じたのよ。もういい歳なのに」


 力なく笑った。赤川の目はコップの中で小波を立てる水を見ている。


「別にね、私が今生きていて、そのためにしてきたことを正当化する気なんてさらさらないのよ? でもね、あの頃の私は、今の私の姿をきっと想像だにしていなかった――人を殺して、人を救うような、そんな業にまみれた生き方をしていくなんて思ってなかったと思うのよ」

「ふうん。随分と落ち込んでんのな。でも、きっとそれだけじゃねえだろ」

「それだけって」

「もっと何かあるんじゃねえの? どれだけ長い付き合いだと思ってるんだ。かれこれもう十年にはなる。あんたのその眉間に寄った皺が悩んでるサインだってことくらい、いい加減覚えたぜ?」

「ほんっと、あんたは気が利くのよね」


 苦笑いをして赤川は的屋の方を見やった。大きくあくびをして、こちらを見る的屋の顔をじっと見る。


「なんだ、顔になんかついてるか?」

「別に。いつも通りの髭面よ」


 赤川はもう一度水を飲む。コップにわずかに残った水を飲み干して、よし、と言った。


「もう大丈夫。これは私の問題だから。困ったら助けてっていうわ。ちゃんと王子様らしく助けに来てね」

「俺はマリオかルイージじゃねえんだよ。それに、あんたみたいな姫様なんてこっちから願い下げだ。誰か攫ってくれ」


 ひどいわ、とくすくす笑って、赤川が立ち上がった。ブランケットを折りたたみながら、ありがと、と的屋に言う。的屋は気にするなと言わんばかりに手をひらつかせた。


「今日はどこまで行くの?」


 赤川が畳み終えたブランケットを自分がついさっきまで座っていた席に置いて尋ねた。


「八王子だな。そこの瑞鴈隆宝寺ってところで祭りがあるんだ。そのついでに葬儀屋からの連絡待ちってとこだな」

「そう、じゃあ、朝ごはん作ってあげるわ。私、眠いから食べたらとっとと行くのよ」

「へいへい、恩に着るよ」


 今度からはもっと早くに来てよね、と言いながら赤川は厨房に入って行く。

 その背中を見送りながら、的屋は思案した。

 あの”舟屋”がそこまで思いつめる事情とは、いったいどんなものだろう。長い付き合いではあるが、一線を画すようにしているので、その人間の詳細はわからない。程よい付き合いで、何も知らないわけではないが、その昔、鬼殺しと恐れられた赤川藤三郎という人間が、何を背負って生きているのか、ふと気になった。


 十年。毎日というわけではないけれど、よくよく顔を合わせてきたというのに、あんな風に思いつめている赤川の表情を見たのは初めてだった。


 けれども。ついさっき、彼女は大丈夫だと言った。それはつまり、これ以上は立ち入るな、というサインだった。ならば立ち入らないようにする。それが的屋のスタンスだった。しかし、何かがあって、舟屋が困ったならば、その時は手助けをしよう。そう思って、また煙草に火をつけた。


 十分もすると厨房から良い匂いが漂ってきた。カウンターの向こうにある、コーヒーメーカーを使って、勝手にコーヒーを淹れ始めた。その奥の厨房の方から、舟屋の声が飛んでくる。


「私の分も淹れてくんない?」


 へいへい、と答えながら、近くにあったコーヒーカップを二つ用意して、均等に注いだ。一つはそのままそこに置いて、自分の分を飲みながらまたカウンター席に戻る。


 舟屋がカツサンドと目玉焼きの乗ったプレートと、お椀にサラダを盛ってこちらに戻ってきた。


「はい、召し上がれ」

「いただきます」


 的屋がカツサンドを頬張る。美味い、と一言言うと、舟屋は優しく微笑んだ。それから、的屋の淹れてくれたコーヒーを一口飲む。


 舟屋はじっと的屋の食べる姿を見ていた。


「……なんかついてるか?」

「ううん、あんた、今日、素敵な出会いをするわよ」

「なんだそれ。また占いか?」

「まあそんなところね。頑張んなさい」

「頑張らなきゃならねえのか」


 その的屋の問いに、ふふふと舟屋は笑って、コーヒーを飲んだ。その姿にきょとんとしたが、まあいいやと的屋は舟屋の作ってくれた朝食を食べる。


 あっという間に平らげて、ごちそうさまでした、と的屋がコーヒーを一口飲んで、煙草を咥えた。


「お粗末様でした。さて、煙草吸う前に、ほら、もう行く」

「おいおい、食後の一本くらいいいだろうよ」

「あんたの一本は一体何本のことを言うのよ。私眠いって言ったでしょ」

「一時間くらい変わらねえって」

「睡眠はお肌を良くするためにも必要なの!」


 的屋が舌を出して、うげえ、と言う。それから残っていたコーヒーを飲み干して、席を立った。


「そんじゃ、ごちそうさん。素敵な出会いとやらに期待して行ってくらァ」

「はいはい、いってらっしゃい。運転気をつけて」

「へいへい」


 スーツのポケットに手を入れて、右手をひらひらと高く振って、的屋はノルニルを出ていった。


 舟屋は彼の平らげたプレートとお椀とコーヒーカップを片づけて、戸締りをする。ようやく、ノルニルを後にしたのは、もう六時を過ぎたころだった。


 そして午前八時。自宅のベッドで眠りこけていた舟屋は、随分と懐かしい夢を見た。十津川に会ったから、なのかもしれない。


 その夢の中で、舟屋はまだ高校生だった。学生服に身を包み、木造の教室の隅の席で、本を読んでいた。そこに若き日の十津川がやってくる。同じように学生服で、頭は丸坊主、野球部に所属していた彼は真っ黒に日焼けしていて雲丹のようだった。


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