第二章
第22話「謝罪の美学」(1)
あれから——”デュラハン事件”から一か月が経ち、万事屋が言った通りで、最近は治安が以前より悪化しているように思う。
今まで以上に殺し屋家業が大忙しで、裏社会の底辺たちは何かを勘違いしているようだ。かくいう昨日も大忙しで、屋号会の全員が仕事をしたものだから、葬儀の方も数が多くてたまったものではなかった。さすがに一日に十人を弔うのはなかなかに骨が折れる。
何も掃除屋が死んじまったからと言って、私たち屋号会が静まることはないのにまるで天下を取ったかのような振る舞いに腹が立ってくる。と、同時に、坂口の存在の大きさに、今だに驚くばかりだった。
しかしながら、私自身、意外と精神的に参っているようで、最近は酒の量が増えたように思う。というか、増えている。あまり強くないというのに、どうして部屋にウイスキーの瓶が転がっているのやら。朝目覚めるたびに、なんだこれ、と部屋を見渡して思う。
まるで、強盗に入られてしまったかのような、台風でも起きたような荒れ様から目を反らして、今日も洗面台に向かう。その前にトイレに駆け込んで、胃の中で大海を知らずに渦巻くゲロをぶちまけて、あーあ、とため息をついた。
弱いくせに無理はするものじゃない。立ち上がるためにほんの少し頭が揺れただけで頭蓋骨の中の脳みそがミキサーにかけられたように動いた気がした。とにかく頭が痛いし気持ちが悪い。朝から私は何をしているのだろう。
唸りながらトイレから出て、洗面台に向かう。鏡を見ると、生気の無い顔をした男がいた。笑えるほど情けないが、笑う気力がなかった。口の中にある酸味を消そうと歯を磨く。しゃかしゃかとブラシのこすれる音が心地よかった。歯を磨きながらテレビをつけると、奇妙なニュースをちょうど報道しているところだった。
「昨夜未明、東京都、渋谷区にある代々木公園内の噴水広場で男性の遺体が発見されました」
綺麗に着飾った女子アナのそんなアナウンスを聞いて、即座に携帯を取り出して情報屋のサイトで検索をかける。すると、昨日のその遺体の写真とその状況がすでに記載されていた。文字を追いかけて、歯を磨く手が止まった。
その遺体の死因は溺死、および水中毒死だったらしい。なのに遺体は全身干からびて、その年齢がわからなかったほどだという。死因で一瞬、舟屋のことを思い出したが、ママの場合は酒だし、こんな風に体が干からびることはない。
なんでもその男は兼信会一派の構成員で、代々木公園の噴水広場に頭を突っ込んでいるところを発見されたらしい。恐らく、何かしらの薬物などによって体が渇く感覚があり、ひたすらに水を飲み続けたことにより、重度の水中毒を引き起こしたのだろう。
歯を磨くのはやめて、身だしなみを整えて、部屋を後にする。
エレベーターに向かう。七階のこのフロアから駐車場の地下一階まで階段で降りるのは骨が折れるから、いつもエレベーターを利用していた。地下一階へ向かうボタンを押すと、がこがことワイヤーがエレベーターを持ち上げた。扉が開いて、無人のその中へ入り、とっとと降りようとしたとき、
「すみませーん!」
と声が聞こえた。中年男性が一生懸命こちらに走ってくる。急ぐ用もないので、開ボタンを押したまま、待ってやる。はかはかと息を切らして、その男性は乗ってきた。頬が赤くなっていて、良い運動をしたようだ。
「ほんと、すみません」
息も切れ切れに彼は頭を下げた。
別にそこまで気にすることもないのに、とこちらも頭を下げる。
「別にそこまで謝らなくても構わないですよ、急いでいたわけじゃないので」
「すみません、謝るのは癖みたいなもので。あっ、また謝ってしまいましたね、すみません」
彼はもう一度頭を下げて、苦笑いしながらまた謝った。いるよな、そういう人、と思い返してみれば、確かに何人か、知り合いにもそういう人はいた。
謝るのが癖になるほど、頭を下げ続けるというのも、どうなんだろうか、と思いつつ、けれどもそれも仕事なのかもしれないし、私とはまったく違う人種の違う職種の違う人生なのだから、気にしたところで仕方ない、とエレベーターの圧力に身をゆだねた。
地下駐車場に着いて、その中年男性に先に降りるように会釈すると、「ありがとうございます」と頭を下げられた。
「そっちの方がいいですよ」
思わず言ってしまった。
中年男性はきょとんとして、なんのことやらといった調子でこちらを見ていた。口をついてしまったので、もう少しだけ、言葉を出してみる。
「謝罪と感謝は違うのだから、あなたが言うその言葉が意味するのが、同じ感謝なら、その方がいいですよ。それじゃ」
初対面の自分よりも年上の男に向かって要らない忠告をして何になるのか。二日酔いで多少のイラつきがあったとしても、そのまま気にせずに放っておけばよかったというのに、今日はなぜか、口をついて出てしまった。
足早に愛車の元に行き、とっととエンジンをかけた。相変わらずの重低音で鳴くこのフィアット500は、的屋によってチューンアップされ、見た目とは裏腹にルパン三世も顔負けのトップスピードを誇る。
ギアをローに入れて、アクセルを踏み込んだ。エンジンが唸り、けれども周りに最新の注意を払って駐車場を出ていく。車道に合流して適当に車を走らせた。行く当てはない。坂口が殺されて、それから一週間が経ったあの日も、同じように適当に行く当てもなくさまよっていた。そしてやはりここにたどり着く。
坂口の死体が発見されたこの場所は、人の通りが多く、今はもう、警察の方は撤収し、通行人の往来が通常通りになっている。誰が置いたのかわからないが、花や缶コーヒーが道の端に置いてあって、あいつのことを想ってくれる人が意外と多いのかもしれなくて、嬉しくなった。
私もあいつの好きだったブラックコーヒーを時折置いていく。気付けば小さな缶の山が出来ていた。それをここらにいるホームレスがこっそり持って行ったりする。本来は怒るような行動であるが、あいつのことを考えると、きっと、別段何を言うでもなく、もう一本缶コーヒーを差し出すのだろうから、それでもいいかと見逃している。結果、どこで拾ってきたかも、本当にここで死んだあいつのことを知っているのかもわからない彼らが、たまに缶詰を置いていくのだ。
エンジンを切って、路上に駐車して、そこをぼんやりと眺めるのが最近の日課になっていた。別にここに来たからと言って、坂口がここにいるわけでもないし、会えるわけでもないのに、意味があるようには思えないのに、心と言うのは不思議なもので、どうしてもここでぼうっと缶と花の山を見てしまう。
と、そこにさっき見た中年親父がやってきた。缶コーヒーを二本持っていて、一本をそこに置いて、彼は近くの壁に寄って、缶コーヒーを開けた。
何を言うでもなく、そこに佇んで、コーヒーを飲んでいる。彼は坂口と知り合いだったのだろうか。彼が小山の上に置いたコーヒーはブラックコーヒーで、中でもあいつの好きだったボスのブラックだったのだ。
彼は寂しそうに空を見上げた。こちらには気づいていないらしい。私と彼の距離はたった数メートルではあったのだが、まさか出先で会うとは思うまい。ゆっくりコーヒーを飲むと、彼は何か思いついたようで腕時計で時間を確認すると、缶コーヒーを急いで飲み干して、缶の山に頭を下げて張り出た腹を揺らしながらひっこらひっこらと走って行った。
始業時間が近いのだろうか。私も腕時計を確認すればまもなく八時を半分超えるところだった。そろそろ行けばちょうどいいだろうか。
私はエンジンを始動させて、目的地へ向かう。多分九時には着くだろう。
薬学の分野に明るく、ついでに二日酔いの薬も所望して処方してくれるだろう薬屋は、きっとその時間に現れる。そう信じて車を走らせた。早く薬を作ってもらって、とっととこの頭痛やら胸のむかつきとおさらばしたくて、アクセルを自ずと踏み込んだ。
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