第23話「謝罪の美学」(2)
慶早大学に着いて、車内でハンドルに腕を乗せてまだかと待つ。腕時計を確認すると、まもなく九時になるころだった。私のほうが少し先に着いてしまっていたらしい。
煙草に火を着けて一息ついたとき、運転席の窓をノックされた。路上駐車で切符でも切られるかと思ったが、見るとそこには薬屋がいた。窓を開けると、相変わらずの礼儀正しい挨拶をされた。こちらも、よう、と返すと、何か用ですか、とリュックを前に持ってきて漁り始めた。すぐに薬屋は小さな紙袋を取り出して、私に差し出した。
「顔、酷いですよ」
「うるせえ、ほっとけ」
「冗談です。これ、二日酔いの薬です。水はありますか?」
ありますよ、と返して、少し頭を下げた。まるでこちらの思惑がわかっていたかのようだった。その下準備の良さを少しは見習いたいくらいだ。
「飲んで三時間。それくらい経てば効いてくると思います」
「ありがたいが、もっと即効性のある薬はねえのか?」
「薬はありませんが、方法ならあります」
「それを先に言えよ。どうすりゃいいんだ」
「飲まなきゃいい」
はあ。ため息が出た。何か言ってやろうと思ったが、そんな余裕がなかった。
「最近飲み過ぎじゃないですか? 気持ちはわかりますけど、ほどほどにしてください。僕らのトップはあなたなんですから」
「わかったよ」
紙袋をあけて、中の粉薬をさっさと口に放り込んだ。舌について苦味にえづきそうになる。肺から空気が逆流するのをこらえて、水でそれを流し込んだ。五百ミリのペットボトルはあっという間に半分を切った。苦々しい顔をしている私を見て、薬屋はいつものことを言う。
「良薬は口に苦し、です。それじゃ、僕は行きますね」
「ちょっと待て」
踵を返した薬屋を引き留めた。今日はこの薬だけが薬屋に会う理由じゃない。ずさりと足を止めて薬屋はこちらに戻ってきた。
「なんです。僕、今日は二限からしっかり出ないといけないので予習もしたいんですけど」
「それならお前の頭なら大丈夫だろ。ちょっと付き合ってくれ」
そういって、助手席のドアキーを開けた。今度は薬屋がため息をついて助手席に回った。席に座ると、もう一度ため息をついて、なんですか、と尋ねてきた。
「シートベルト閉めろ」
「あの、人の話を聞いていましたか? 僕は今日、二限からしっかり受講しないといけないんです。それで」
「予習もしたいんだろ? 俺も予習したいんだ。代々木公園で変死体が出たの知ってるか?」
「ああ、あの死体ですか。テレビでも大々的に取り上げられていましたね。ってちょっと!」
なんだ、と言い返してアクセルを踏み込む。
「もう! いっつもこうだ! 僕は葬儀屋さんのせいでいくつか単位を落としているんですよ!?」
「大丈夫だ、どうにかなる」
「そう簡単に言いますけど、僕は普通の大学生活を送りたいんです! せめて少しくらいは気を遣ってくれたっていいじゃないですか!」
「それはまた今度な」
「また今度、って。いつになるんですか! こないだもそう言ってたし! その前もそうだ。その前の前も。僕ももう四年ですよ。これから就活も始まるのに、ああもう、絶対響いてくるよ……」
「ホントに困ったら俺が斡旋してやる」
「結構です。葬儀屋さんから斡旋されるのは殺しだけで十分です」
さいですか。ハンドルを切って、十字路を右折した。首都高に上がる。ちらりとサイドミラーを覗いた。
「まあいいや。それで、その変死体がどうしたんですか?」
諦めてくれたようで薬屋は背もたれにだらりと凭れた。
「ニュースではまだ発表されていないが、死因は溺死だ」
「でしょうね。なにせ噴水に顔を突っ込んで死んでいたところを発見されたそうですから」
「ああ、問題なのはその姿だ。そしてその死因がもう一つ挙げられている」
「もうひとつ?」
「水中毒。それにカラカラに体の水分が乾ききっていたらしい。これは薬で引き起こすことは可能か?」
「どうでしょう。超強力な利尿剤でもあれば起こりうるかもしれません。でも、僕は聞いたことがありません。水中毒に関して言えば、要は必要以上に水を摂取すればいいだけなので、それ自体は簡単に引き起こせるとは思いますが……」
「なんだ? そもそも、どれくらい水を飲めばそうなるんだ」
「人によりけりです。そもそも水中毒は、過剰な水分摂取によって、腎臓の機能が伴わなくなり、細胞が膨化して希釈性低ナトリウム血症を引き起こします。つまり、体内の血液中のナトリウムイオン濃度が低下することで様々な症状を引き起こすんです。腎臓の利尿速度は最速でも毎分十六mlなのでこれを超える速度で水分を摂取させれば中毒症状は生じます。でも、人間には心がありますから、そんなに簡単に引き起こせるかと言われれば、僕は首を縦には振れません。それにやっぱり、体が乾ききるほど体内の水分を消化させるというのは、ていうか、葬儀屋さん」
「なんだ?」
「飛ばし過ぎじゃないですか? いくら高速と言っても、ここ日本ですよ」
「ああ、知ってるよ」
アクセルを更に踏み込む。メーターがガンガンに駆け上がっていく。
薬屋は身を固めて顔を前に向けたまま呆然とし始めた。目の前の景色は流れていく。前に近づく車たちの間を縫うように躱していく。ルームミラーを見れば、追いかけてくる真っ黒なクラウンが三台あった。
どこからつけられていたのだろうか。そもそもあいつらは何者だ。
「葬儀屋さん、スピードを落としませんか? あの、大学休みますから、ゆっくりでいいですよ」
「馬鹿言うな。俺はお前を大学まで送り届ける気はねえよ」
「なにそれ! 拉致じゃないですか!」
「かもな。にしても、さっきの話の続きだが」
「無理です! こんな状況で僕は話せません!」
「今話してるじゃねえか」
「揚げ足取る暇あったらブレーキ踏んでください!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ薬屋を横目にスピードを緩める気はなかった。
「まったく、ここは洋画の世界じゃねえんだよ」
サイドミラーを見てみれば、後ろに続く三台のうち、一台、その助手席の窓を開けて、そこから男が身を乗り出していた。その手には何か銃火器を持っている。大きさからして、アサルトライフルかサブマシンガンか、いずれにせよ、ピストルの類ではないし、ロケットランチャーほど物騒なものでもなかった。
「薬屋」
「なんですか」早口に薬屋が答える。
「後ろ見てからブレーキ踏むか、もっとアクセル踏むか決めてくれ」
何言ってんだ、という顔で薬屋は首を回す。ゆっくりと回して後ろを見て、即座にその首を前に戻した。
「もっとアクセル踏んでください!!!」
「かしこまりましたー」
ぎりぎりのところで車を躱しながらとにかく走らせた。まさか首都高でカーチェイスをする日が来るとは思ってもみなかった。
「ていうかなんでそんなに冷静なんですか!」
薬屋が叫んだ。
「そりゃ、俺だって、殺し屋だってことだろうな」
「ああもう、こんな風になるなら初めから葬儀屋さんのことしかとすればよかった」
顔を青ざめさせて薬屋がつぶやいた。
「おいおい、そんな冷たいこと言うなよ。少なくとも、いつものドライブよりは刺激的で退屈しねえだろ」
「刺激的なんてものじゃないですよ! 死にます! 危険です!」
「そう思うから恐怖が増幅されるんだ。もっとポジティブにいこうぜ」
「ど、どうすればいいんですか!」
そうだなあ、と考える。そういえば。
「お前、花屋とデートしたのか?」
「うへ!?」
「まだなのか。肉屋だってもう元気だし、そろそろデートの一つや二つ、しとかねえとどこぞの馬の骨かもわからないような男に掻っ攫われるぞ」
「そ、そんなこと言ったって、僕だって色々考えてアピールしてますけど、花屋さん、忙しいみたいで」
「俺はなるべく花屋に仕事振らないようにしてるぜ?」
「花屋さんのほうです。そっちの仕事が忙しいみたいで。でも、花に囲まれて幸せそうな花屋さんを見てると、それで十分っていうか」
「青いねえ」
「うっさいですよ! ていうかやっぱり無理です! こんな状況でポジティブもあったもんじゃない!」
右に左に揺られながら、薬屋はまた叫んだ。確かに、こんな状況じゃ、恋のあれこれなんていうのを話したところで、絶望的な状況に追い込まれそうな気がして気が引けた。
「あいつらいったいなんですか!」
「さあ? 屋号会もいろんなところで恨みを買ってるのかもな」
そう答えて、私はとにかくアクセルを踏んだ。レッドゾーンはとっくに過ぎている。ブラックゾーンでメーター針が小刻みに震えていた。
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