第3話「それは薬屋の美学」(2)

 どこまでいっても大学だって学校だった。薬屋が受ける講義だって——広く座席の無駄にあるこの講義だって、結局のところ高校の授業と差異はない。それ以上に大変かもしれない。教授が好き放題にしゃべって、必要なことを板書し、事前に渡された資料に目を通し、縦横無尽に話が行ったり来たりを繰り返す。たまに脱線して事故を引き起こす。

 聞くものは聞くが、眠いものは教授の熱弁を子守歌代わりに寝息を立てる。教授はそれに気付いているのかいないのかわからないけれど、さらにその脱線事故に拍車がかかる。

 薬屋はと言えば、そのすべてを退屈そうに肘をついて見ていた。こないだも同じところをこの教授は熱く語っていたので、少なからず今学期の試験にはここが使われることは間違いないだろう。

 時刻は一二時を回った。

 リュックから古いハードカバーの本を取り出して薬屋は読み始めた。今日の標的に使うための薬を探すためだ。ぺらぺらとページをめくる。

 数人がその姿に見とれていた。さらりと目元を覆うほど伸びた前髪はうっとうしさはなく、彼が小首を傾げると迷惑にならないように傾けたほうへ流れていく。

 講義室の端で本を読む彼の姿をその数人の女性たちはこの角度がいいのだと語り合っていた。余談であるが彼の姿を見たいがためにこのつまらない講義を取っている連中もいるほどだった。

 結局、教授も教授で何が言いたいのか分からなくなったようで、最後に一言「もう一度読み直すように」といって精神分析学の講義は終了となった。

 女性たちが意を決して薬屋のもとへやってくる。

「ねえ海堂君。このあとランチ行かない?」

 その声に薬屋は顔を上げた。それから目を泳がせて、残念そうに微笑んだ。

「ごめん。僕この後すぐに行かなきゃいけなくて。”実験”があるから」

「そっかあ、残念。今度一緒にランチしようね」

 今度はぜひ、と微笑んだ薬屋に女性たちは満足げだった。

 彼は机の上を片づけると講義室を出て、そのまま大学の実験室に足を運んだ。

 第三実験室。扉を開けると白衣を着た老人が一人、顕微鏡を覗いてぶつぶつと言っている。

「おじいちゃん」呼ばれた老人は顕微鏡から目を離さずに、「来たか」と言った。

「今日は何だ」

「なんだって、いつもの仕事だよ」

「いつもの仕事な。わしもいつもの仕事だ」

 とっちらかった机の上には大事なんだかそうでないのかわからなくなった資料が山のように雪崩れてあった。

「そろそろ片づけたほうがいいんじゃない? おばあちゃんが来たら怒られるよ」

「そのときはその時だ。勝手に怒っておればいい。葬儀屋の坊主は元気だったか」

「見たの?」

「ああ、窓からあのフィアットが見えた。元気なのか」

「元気も元気、うちの生徒と寝るくらい元気だよ」

「わしの教え子じゃないだろうな?」

「多分違うんじゃない? あの子はおじいちゃんのゼミを受ける理由もないし」

 薬屋は慣れた手つきで資料の山を整え始めた。いつものことなのだろう。

 今使っているであろう資料をその老人――海堂保かいどうたもつの近くに重ねておいて、もう使っていないであろう資料はその近くの机のほうに押しやった。

「それはなに?」

 薬屋が保の顕微鏡目掛けて言った。プレパラートには青いスライムのようなものが挟まれている。

「人食いアメーバだ」

「今度はアメーバか」

「そう、今度はアメーバだ。ずいぶんと食欲旺盛なアメーバでな。体内に入れば確実にそいつを中から食い殺す」

「そりゃ物騒だね」

「だが問題点がある」

「なに?」

「酸性に弱いということと、何か食べ物に混入させてもその食べ物を食っちまうからすぐばれる」

 保が顕微鏡から目を離して資料をぺらぺらとめくり、何か書き込んでいる。アメーバがどういう反応をしたのか書いているのだろう。

「酸性に弱いんじゃ実用化はまず無理だね」

「それをどう実用化させるかの段階なのだ。無理ではないだろうが、今は可能とも言えない」

「そう。あ、たまには家に帰ってよ? おばあちゃんにまた怒られないうちに。どうせお風呂もろくに入ってないんでしょ」

「風呂なぞ入らんでも生きていける。少しの水と栄養があればな」にかっと笑った。それからまた顕微鏡を覗き込んだ。

「そうだろうけど、曲りなりにも医者でしょ、そんなんでいいの? それにおばあちゃん潔癖症じゃん」

「ああ、なんでわしはあんなのと結婚したのかわからん」

 顕微鏡に顔を近づけたまま保は首を横に振った。

「今日は何を使うんだ」

「掃除機とシュレッダーかしらね」

「何を言っとるか」

 保が顔を上げて固まった。その視線の先には薬屋と、自分の妻がいた。

「薫子」ぼそりという。

「はい、薫子ですよ」

「いつからいた」

「なんでわしはあんなのと結婚したのかわからん、とあなたが言ったところからかしら」微笑んだ。少し薬屋に似ている。

「なんて間が悪いババアじゃ」

「なんて性格の悪いじじいですかね。こないだ片づけたばかりなのにこんなに散らかして」

「実験に次ぐ実験でそれどころじゃなかったんじゃい。お前は知らんだろうがな」

「ええ、私は実験しようとなにしようとすぐに片づけますからね。こんなに散らかる理由がわかりません」

 そう言いながら薫子はそそくさと部屋を片付け始めた。

「じゃあ僕はそろそろ行くよ」

「そう、今度うちにおいでね」

「うん、近いうちに行く」

「おじいちゃんには私からしっかり言っておくから」

 冷や汗をだらだらかきながら保は小さくなっていた。反対に薫子はとても楽しそうだ。

 二人を見て苦笑いを浮かべながら薬屋は実験室を後にした。

 必要なものは回収した。あとは自分が佐伯としてそこに足を運ぶだけだ。

 大学を出るころには昼時は過ぎていたが、中庭にはそれなりに学生がいた。大学は自由な学校である。好きに生きているようなものばかりだ。

 大学の東門を抜けようとしたとき、門から伸びた壁に併設されたベンチに例の園実を見つけた。葬儀屋は困っていたら助けてやってくれと言っていたが、その園実は本命の男の膝の上に座って、際どい行為を取っていた。あれも困っている、ことなのかと考えたが、熱烈に舌を絡ませる二人を見て、何も困っちゃいねえとそのまま門を出た。

 葬儀屋さんは本当に女を見る目がないな、と携帯を取り出す。時間は一六時まであと一〇分。

 問題の来来軒はここから五分で着く。何も問題はない。

 しかしよくよく考えれば問題はあった。大学からわずか五分で着くようなところで薬物の引き渡しが行われるなんて物騒極まりないことだ。

 葬儀屋から送られてきた情報によると、おそらく今回の標的はこの大学が立ち並ぶ立地を利用して、学生たちを毒牙にかけていたのだろう。十数名いる被害者のほとんどは女子大学生であった。

 ひどい話であるが、よくあるといえば、よくあることだった。普通の世界の人間はそれは別世界の話であるから知らないだけで、裏世界に頭まで突っ込んだ薬屋からしてみれば、もっと汚い話だって見聞きしたこともあったから、今更これくらいで驚くことはない。

 ただ、腹が立つのはいつも変わらない。性善説も性悪説もどちらも気にしたことはないけれど、裏の人間が、表の人間を裏の汚いところへと引きずりこむのはいつ見てもたまったものではなかった。

 歩いていると日差しの強さにくらっとする。陽に弱いのは今に始まったことではないが虚弱体質な自分に苦笑いした。苦笑いしてばかりだ。

 時間通り、一六時には来来軒についた。軒先には薄汚れた使い込まれている暖簾がかけられている。がらがらと古くなった引き戸を引き開けると、中には客は誰もいなかった。適当にテーブル席に腰をかけた。

 店奥から五〇歳ほどの女性が一人、割烹着を着てやってきた。いらっしゃい、とあいさつをされる。それと一緒に水を差し出されたので、薬屋は二人分お願いしますと頼んだ。相手が後手に回ったのは幸いだ。仕事が楽に済む。


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