第2話「それは薬屋の美学」(1)



 02



 七月七日。

 午前八時——中野区。

 その時彼は大学に向かう準備をしていた。東京の中野駅北口を出て徒歩五分のマンションに住む彼は、普段通り駅から総武線に乗って御茶ノ水まで出向く。そこに彼の在学する薬学部はあった。

 寝るときに蒸し暑くてつけていた扇風機にもう一度スイッチを入れる。窓を開けて風通しを良くした。ちりんと風鈴が鳴る。

 朝食はそれほど食べない。トーストと、目玉焼きに昨日の内に切るだけしておいた野菜を盛り合わせたサラダを小鉢にいれて、柱のような湯気を立たせる緑茶とともに飲み込んだ。すべて食べ終えて、食器を即座に洗い、彼はそのまま台所から洗面台へ移動する。

 今度は歯を磨いて、がしゃがしゃとうがいをし、そのまま蛇口から流れ出る水で顔を洗い、ちかくにかけたタオルでしっかりと顔面の水気を取る。あとは着替えて部屋を出ればいい。

 普段から愛用しているリュックサックを背中にかけて、シックな、それでいて別段目立つこともないような、無地のチノパンとシャツにジャケットという落ち着いた服装で彼は家を出た。鍵をかけてドアノブを一度ひねって鍵がかかっているかを確認した。

 駅に向かう途中、一台の車が彼を見るように止まっていた。フィアット500。ルパン三世の車、と言えば誰もがその形状を理解しうるそれを真っ黒に塗ったその車に、彼は見覚えがあった。

 はあ、と彼はため息をついた。厄介事には慣れっこであるが、あまり好き好むものではない。

 隣を平然と通り過ぎることも考えたが、そんな考えを思いついたところでそのフィアット500から人が降りてきた。男だった。真っ黒のスーツに真っ黒のシャツ、それに真っ白なネクタイ。歳は三〇に近いくらいか。それが”葬儀屋”と呼ばれる、大学生の彼の上司であった。

「よう、元気か」

 煙草を咥えて出てきた男に彼は頭を少し垂れてから、丁寧に言った。

「おはようございます。ここ、路上喫煙禁止です」

 困ったな、と顔をしかめて葬儀屋は煙草を元あった箱の中へ押し込んだ。今度は葬儀屋がため息をつく。

 手で乗れ、と合図した。彼は葬儀屋に甘えて車内に乗り込んだ。

「送っていってやるよ」

「ありがとうございます」

 葬儀屋は先ほど押し込んだ煙草を取り出して咥えた。オイルライターで火をつける。ふう、と一息吐いてからエンジンをつけた。

 ウィンカーを出して車道に復帰する。紫煙をくゆらせながらハンドルを回した。

「どこもかしこも分煙っつーか、嫌煙だよなあ。肩身が狭くてたまったもんじゃねえ」先が思いやられる、と葬儀屋は体を震わせた。

「やめればいいのに」

「やめれたらいいんだけどな。これやめちまうと、今度は女に走って痛い思いをしそうなものだから、だからこれはやめられない」葬儀屋は口角を少し吊り上げた。

「知ってるか? 喫煙者のこの煙草を口に咥える、という行為は幼いころの母親の母乳を吸うために乳首を咥えるという行為に通じてるんだと。ってことは、世間で嫌々言われてる会社のクソッタレ上司も、あそこでしかめっ面で借金回収に勤しんで白いスーツに汗しみこませてる海坊主も、皆マザコンだってことになるな」

「葬儀屋さんもね」彼は葬儀屋に嫌味っぽく言った。

「そうとも。俺は生粋のマザコンだ。なんせ母親のことを知らない。知らないものを知りたいと探求するのは人間の特権だ」

 いつものことである。両親のことを知らないという葬儀屋は、何かにつけてそれを言い訳に使うような肝の据わった、というかどこか恥知らずというか、そんな男であった。

「それと葬儀屋さんが禁煙できないことに何の関係があるんです」

「そんなもん、煙草の方が女より安く済むということだ。やれこのバッグが欲しいだの、新しい靴がほしいだの。やれこのパンプスがーやれこのミュールがーやれこのメリージェーンがー。どれも同じように見えるその靴一足一足に対して男は愛情を持って買ってやらねばならん。大した給料もないのにだ。やってられるか」吸いきった煙草を灰皿に押し当てた。

「でもいいじゃないですか。女性とお付き合い出来て、一緒に時間を過ごせて、その時々を共有できるって素敵じゃないですか」

「どこがだ。お互いの共有よりなにより必要なのは思考のすり合わせだ。相反し続けると苦しくて死んだ方がましだと思うことの方が多い。幸せな家庭だのなんだの、そんなのは一握りの成功者が見た幻だ」

 そこまで言うか。

「っていうか。こんな話のためにわざわざ僕のところに来たんですか」

「暇だからな」

 仕事に行けよ! 心の中で彼は叫んだ。

「ま、好き放題言ったが、結局俺は女が好きだから、なに、つい今朝までとある子と一緒に過ごしていたんだ。お前のとこの大学生だそうだ。なんでも二浪して学費を貯めた末に入学したといっていた。家も貧乏で大変らしい。いい子だった。名前は園実胡桃そのみくるみというそうだから、もし学校で困っていたら助けてやってくれ」

 もう一度葬儀屋は煙草を取り出して吸い始めた。

「じゃあもしかして、送って行った帰りですか?」

「そうだ。で、お前のところに寄ったんだ。彼女のことを頼もうと思ってな」

「その人、多分、それなりに小金持ちですよ」彼はかわいそうに、と目を伏せて苦笑いした。

「なぜそう言い切れる」

「葬儀屋さん、服のブランドとか、わかりますよね?」

「ああ、俺は曲がりなりにもそういうことから推理することを生業にしているからな」

「だったらもう一度昨日のその子の恰好を思い出してみてくださいよ」

 彼に言われて葬儀屋は思い返した。たしか昨日の彼女の姿はどうだったか。昨日は蒸し暑く、彼女はワンピースと薄手のカーディガンを肩からかけて、両手で隠れそうな何を入れるためのものなのか機能性に困惑するバッグを持ってきた。

 ワンピースは夏らしくブルーがプリントされたもので、絵の具をぶちまけてそれを垂らしていったように不思議なグラデーションをしていた。あれはトレイシーリーズのものだった。

 じゃあバッグは、まごうことなきエルメスのマークがあった。

「ほらね」

「でもプレゼントだったかもしれねえぞ。足元はスニーカーだった。だから」

「『俺が買ってやった』やっぱり。そういう噂ですよ。わざとワンポイント外すんですって。それでそのワンポイントを買ってもらうとかなんとか。何買ってあげたんです」少しずつ葬儀屋の表情が曇っていく。

「そのワンピースに似合うようなメリージェーンを」

「お高かったでしょう?」

「お高いも何も、そのワンピースと同額だ」

「ご愁傷さまでした」彼は助手席で頭を下げた。

「過去の男からもらったものを捨てられない女なんていくらでもいる。俺はそういうことは気にしない」葬儀屋はアクセルを踏み込んだ。

「でも、その男たちからたくさんもらったものを彼女は売りさばいているんですよ」

「なに!?」今度は急ブレーキをかけた。

「いった! あぶないですよ!」どふっとシートベルトに彼の体は食い込んだ。

「ああ、わりい。つい。で、売りさばいているってなんだよ」

「半額でもそれなりの値段ですからね。僕はその現場に居合わせたことがあります。何をしているのか、と聞いたら泣きながら元彼との思い出を消化するのだと言っていました。周りには同情しながらもその商品に目が眩んだ女学生が群がっていましたよ」

 現金なやつでした、と青年は締めた。

 午前一〇時。彼の大学前に着いた。なんの偶然か、ちょうどさっき葬儀屋が送ったその女性も門をくぐるところだった。その左腕を見知らぬ男に巻き付かせて。

「ほらね、あれが本命です。でも本命も裏であの子がやっていることを知らない」

「マジかよ、ありゃ悪女になるぞ、というか悪女だ」

「葬儀屋さんは女のひとを見る目がまるでないですからね。恋は盲目、なんてもんじゃない。もうろくしているくらいです」彼は首を横に振った。

「まあいいや。過去の女のことはすぐに忘れる。…………マジか。高かったんだけどなあ」葬儀屋はハンドルに頭を預けた。

「それで、お話って、それだけじゃないですよね」

「いやもうそれだけでいいや。俺ちょっと帰って寝るわ。はあ、たった一日でいくら消えたと思ってんだ……」出ていくように左手でしっしっと彼を払った。

「ちょっと、葬儀屋さん! 仕事の話でしょ!」

 はーあ、と大きくため息を一度ついて、葬儀屋は背もたれに体を預けた。

「わかったよ、今日の一六時。来来軒って中華食堂に成上銀芭なりあがりぎんばって男がやってくる。そいつが標的だ。これがその男の写真だ」

 葬儀屋はジャケットから取り出した一枚の顔写真を彼に渡した。

「なんでも最近フリーで色んな汚い仕事をしているらしい。元は元組はじめぐみの構成員だったそうだが、あそこが壊滅したあとはしぶとく裏の世界にくっついているそうだ。だが、最近薬の横流しやら、それで女を壊して泡にしたり好き放題が過ぎる。ここらであいつを片づけないと、ちっとばかし俺も夢が見られない」

「これ、的屋さんじゃダメなんですか?」

「あいつはほら、子供の方が好きだから」

「語弊が生まれそうな言い方ですね」

「本当のことだから仕方ない」

「まあいいです、わかりました。ていうか、もう懲りてくださいよ。毎回毎回答え合わせで外れなの、飽きました」彼はシートベルトを外してドアに手をかけた。

「外れっていうなよ。俺にとって、どの女性だって大当たりだった。ただ、そのあと上手くいっていないだけだ」

「そうですか」

「とにかく、その男は佐伯という男との薬の交換にやってくる。お互いに面識はないようで、こちらでその佐伯は処理しといた。お前がそいつに成り代わってどうにかしてきてくれ。遺体の処理はいつも通り俺に任せろ」

「わかりました」

 彼が車から出ると、クーラーの効いていた車内とは反してでろでろに溶けそうな熱気が体を包んだ。思わず吐きそうになる。

 フィアット500の助手席側の窓が開いて、葬儀屋が顔をのぞかせた。

「そんじゃ”薬屋”、後は頼んだ。俺は今度は花屋のところに行かなきゃいけない」

「仕事に精が出ますね」嫌味っぽくいう。

「しかたねえだろ、仕事しかしたくねえんだよ」

「心中、お察しいたします」さらに嫌味っぽく言って薬屋は微笑んだ。

「うるせー、んじゃ、また後でな」

 そのままフィアット500はドリフトをしながら大学前から消えていった。

 薬屋は大学へ授業を受けに向かう。本来の仕事はこちらだからだ。もう一つの仕事は、授業が終わったら始めよう。




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