第12話「それは肉屋の美学」(1)




07



 七月七日。

 午前八時——阿佐ヶ谷。

 喫茶店『ハナノユメ』では店主の男がモーニングセットを作り続けていた。五○○円という良心的に設定された値段で、その内容はこんがりと焼けたパンにハムとチーズを挟んだホットサンドに目玉焼きとウインナーが二本、それと厳選したブレンドコーヒー。


 毎朝七時から開店しているこの店では常連客が所狭しと朝食をとっている。朝の忙しい時間帯だというのに、外には数人の行列が出来ていた。軽食ではあるので、どんどん客は回転していくのに、それと同じくらい待つ人が現れるので行列はなかなかなくならない。


 席数は三六席。カウンターが一〇席で、二人掛けのテーブル席が一〇ほど。そしてテラスに同じテーブル席が三つある。今日は天気がいいので少ないテラス席から埋まって行った。ホットサンドを片手に新聞を広げる人や、コーヒーと煙草を味わっている人。様々いたが、どの客の顔も穏やかだった。


 それは店主の料理の腕と、そして彼の人柄の良さが作り出したものだろう。常連客は皆、口を揃えて、店主に会いたくて足を運ぶという。


 店主の風貌は決して端正なものではない。しかし愛嬌があった。丸々とした顔に顎鬚を蓄えてまるで熊のようである。身長は約一八〇センチとやや高く、それに比例して体重はどっしりと重々としていた。樽のようになった胴体と、その顔も相まってテディベアによく似ていた。


 いつもにこにこと笑顔を絶やさず、客の願いはよほどのことではない限り聞き届ける。今日もそうだった。


「マスター、俺、ちょっとダイエット中でさ。できればホットサンドの代わりにサラダとか作ってほしいんだけど、できる?」


 カウンター席で、サイズの小さくなったワイシャツの、ぷくりと膨らんだ腹部をさすりながら、メガネの中年男性がそう言った。それに対して嫌な顔も困った顔もせず、店主は二つ返事でいいですよ、と答えてサラダの用意を始める。


「俺もダイエットしようかなあ」店主が熊のような声を出して、その客以上に丸くなった腹をさすってみせた。


「いやいや、マスターはそのままがいいんだって。ねえ、そうでしょう?」


 サラダの客が隣でホットサンドを食べるスーツ姿の女性に声をかける。少しむせて、首をぐんぐんと縦に振った。飲み込んでからその若い女性もそのままがいいです、と店主に向かって言う。


「だって、そのテディベアみたいなところが可愛くて、癒されに来てるんですから」


 そうそう、と至る所から声が上がる。ここは俺らのオアシスだとか、熊さんみたいでかわいいんですとか。そんな声が聞こえてきて照れた店主はトマトを少し切り過ぎた。


 サラダの客がにやにやとしながら「今日はモテモテだねえ」とおだててみせる。はずかしいですよ、と言いながらもサラダをよそう手は止まらず、あっというまに大盛になった。


 おまけです、と店主が笑ったが、そのあとすぐに、これじゃダイエットにならないですかね、と頭をかいた。するとサラダの客は首を横に振って、「野菜だから大丈夫でしょ」とがっついた。


 続々と食べ終えて支払いを終えた客たちが店を出ていくとき、ごちそうさまと言った後に、必ず、「いってきます」と言う。店主も「いってらっしゃい」と言ってそれを見送った。


 まるで家庭のような雰囲気がそこにあった。穏やかで温かくて、笑顔がたくさん咲いている。妹の店のように、うちでは人の笑顔が花を咲かせるのだと、店主はいつも葬儀屋に言っていた。


 時刻は九時になり、あれだけ忙しかった店内はようやく落ち着いて、客はもう誰もいない。昼食時まで束の間の休息だ。後片付けに精を出す。今日はどれだけの人を見送っただろうか。明日もまた来てくれるだろうか、そんなことを思いながら皿を洗い、コーヒーカップを拭く。


 それから厨房で少し遅い朝食をとった。今度からモーニングセットで出そうと検討している具の違うホットサンドに齧りつく。中には目玉焼きとそれを挟むようにベーコンがあった。じゅわっとベーコンの肉汁と卵黄が溶けだしてくる。これを出すとしたら、サイドメニューとして用意するものは何がいいだろうと考える。


 と、からりんころんと来客を伝えるベルが鳴った。急いで飲み込んでドアを見る。いらっしゃいませ、と言ったところでその客の顔を見た。その客はついさっきカウンター席でモーニングセットを食べていた若いスーツ姿の女性だった。汗をだらりとかいていて、綺麗な茶髪が額にくっついている。


「どうしました?」と店主が尋ねると、その女性は「忘れ物をしてしまいまして……」と泣き声にも似た声を出した。


「あの、大事なものなんですけど、今日の朝には入れたんですけど、私それがないと、もう、ダメで……」


 その女性が目元を歪ませて尋ねた。悲壮感が漂っていて居た堪れない。


「なにか大切なものみたいですね。探すの手伝いますよ」


 店主の提案に首と手をぶんぶんと振って申し訳ないですと遠慮する女性に、店主はちょっと待ってくださいね、と声をかけて、コーヒーミルの取っ手をぐるりと回し始めた。


「その前に、今からコーヒー淹れますから。それでも飲んでまずは落ち着いてください。焦ってしまっていては何か見落としてしまいますよ」


 柔和な表情でそう言って、挽いた豆を取り出して、コーヒーを淹れる。


「ほら座って、これは俺からの差し入れです」


 ことりとカウンターテーブルに湯気の立つコーヒーを淹れたカップと皿を置いた。熊のような店主はその前に立ってにっこりと笑う。おずおずと女性がその席に腰をかけた。


「じゃ、じゃあ失礼して……いただきます」


 こくり。一口飲んで、ふう、と息を吐く。


「お、美味しいです」


 少し表情が柔らかくなった女性を見て、店主はよかったです、と微笑んだ。

 女性がまた一口コーヒーを口に運んでいると、店主はすたたと厨房に行って、冷蔵庫を開けた。中からホール型のケーキを取り出す。昨日遅くに作ったレモンチーズケーキだ。チーズケーキの上に薄く切ったレモンカードがふんだんに乗っている。そのレモンも蜂蜜につけて酸味をほのかに残しつつ甘味もついている。それを一切れカットして、皿にわけた。チーズケーキを冷蔵庫に戻して、皿にわけたチーズケーキの上にミントをひらりと一枚のせて女性のもとに持っていく。


 これもどうぞと差し出して、またにっこりと笑った。本当に申し訳ないですとさっきのように遠慮する女性に、「いいんです、これは趣味で作ったものですから。まだお店に出そうか迷ってて」と苦笑いした。


「もし、あなたが気に入ってくれたならお店に出そうかなあってふと思ったんですよ。お客様が喜んでくれるのが俺は一番うれしいですから」


 じゃあ、失礼して。またそう言ってその女性はぱくりとそのレモンチーズケーキを一口。んー、と唸った。しっとりとした生地が舌の上で少しずつ溶けていく。レモンとチーズクリームの酸味が爽やかに口から鼻の方へ抜けていった。そのあとに続く蜂蜜の甘味が優しい。サクサクとした食感のクッキー生地は噛んでいて口の中が楽しかった。


「美味しいです!」


 がばりと顔を上げて、フォークを口に咥えたまま目を輝かせた。よかった、と店主が言うと、それを聞いてか聞かずかぱくぱくと食べ進めていく。その姿を満足そうに見て、店主は再びコーヒーカップを磨き始めた。


 その女性はあっという間にレモンチーズケーキを食べ終えて、ごちそうさまでした、と手を合わせた。


「それで、忘れ物っていうのは、いったいどういうものですか?」


 話を聞いてみると、鞄に入れていたはずの書類がなくなっていたという。それは今日の会議で使う企画書らしく、もし、その会議に間に合わず、なくしてしまったままだったら、おそらく、減給どころか、自分の首も危うい、とのことだった。


 一四時からその会議が始まるそうで、今日はその会議に合わせて出社してよいということだったのだが、心配性な彼女はいつも通り出社して、心の準備をしようとしていたらしい。そして会社について、鞄の中を確認をしてみると、その書類がなくなったことに気付いてすぐに飛んで戻ってきたのだそうだ。時刻は九時過ぎ。まだ猶予はあるらしい。


 女性は店に戻ってきたときに比べてだいぶ落ち着いていた。店主は「もう一度、書類を用意するところから思い出してみませんか」と女性に言う。女性は、はい、と返事をして、顎に人さし指を当てて目を宙に向けた。


「えーと、確か、昨日の夜一八時にある程度仕上げて、そのまま家に持ち帰ったんです。それで、家で仕上げて、コンビニにコピーに行って、家にあった封筒に入れたんです」


 そのとき、女性は、あっと声を上げた。何か思い出したようでがさがさと鞄の中を確認する。そして、真っ白な封筒を取り出して、その中を開けた。するとそこには探していた企画書があった。


「ありました!!」


 喜色満面の笑みで店主に報告する。店主はよかったですねえ、とおかわりのコーヒーを注いでいた。女性の前にコーヒーを差し出す。


「昨日、それで家に帰って、その封筒にお茶をこぼしてしまって、新しくまたコピーしなおして、封筒も切れていたものですから、買い直して入れたんでした……ご迷惑をおかけしてすみません……」


 するするとしおれていく花のように最後の方は気恥ずかしさも相まってひどく小さな声になっていた。


「見つかってよかったですね。ほらね、焦ってしまっては、何かを見落としてしまうでしょう? 今日の会議、上手くいくといいですね」

「はい、それはもう、頑張ります!」


 女性が小さくガッツポーズをした。ごくりと差し出されたコーヒーを飲むと、立ち上がって、がばりと頭を下げた。


「本当にありがとうございました! いろいろ迷惑かけた上に、美味しいコーヒーとケーキをごちそうになってしまって……」

「いいんですよ。あなたが喜んでくれたなら。それに、また、お店に来てくれるでしょ?」にやりと店主が笑う。


 女性はぷっと噴き出して、元気よく、はい、と微笑んだ。すると、店主は何か思い出したかのように、「少し時間あります?」と女性に尋ねた。ええ、まあ、と返されると、急いで厨房に入って行った。女性がどうしたのかと困惑しながら数分も待つと、店主はいつものニコニコ顔で小さな紙の箱を持ってきた。


「これ、お弁当です。と言っても中身はサンドイッチですからおやつみたいなものかもしれませんが、お昼にでも食べてください」

「そんな、わざわざありがとうございます!」

「もちろんお代はいりませんよ。俺の厚かましい厚意ですから」

「本当にありがとうございます! ありがたくいただきます!」


 何から何まですみません、ありがとうございました、そう頭を下げて、女性はドアノブに手をかけた。


「いってらっしゃい」店主がそう声をかけた。女性は晴れやかな顔で、「いってきます!」と片手でガッツポーズを作った。もう一つの手には、つい今受け取ったサンドイッチの箱を大切に持ちながら彼女は走って行った。


 ふう、と店主は誰もいなくなった店内で一息つく。


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