第40話「宵闇の美学」(2)

  坂口がふん、と鼻を鳴らした。


「なんだよ」

「いや」


 いやじゃねーだろ。坂口は手を握って口元にあてて笑った。


「なんだよ、なんかあるのか」顔だけ坂口に向ける。

「まあ、なんだ。お前は変わらないな」

「はあ?」

「いつだったか、お前の爺さんに稽古をつけてもらった時があったろう」

「ああ、あれか。あれか」

「ああ、あの時もそうだった」

「何がだよ」

「あの時もお前は腹が減ったと騒いでいたんだ」

「馬鹿言うな、あれは生き地獄だ。騒がねえほうがおかしいんだよ」


 忘れもしない中学二年生の頃の話だ。夏休みを謳歌しようと息巻いていた私と坂口はうちの爺さんによってどこかもわからない山に突然連れていかれた。のちにその山は爺さんの所有している山だったことがわかったのだが、いずれにせよ山は山で、中学二年生で街に繰り出して遊ぼうと考えていた私たちにはまったく無縁のところであった。

 突然に連れていかれた私たちは、そこで”修行”をする羽目になったのである。馬鹿馬鹿しい話だと思われるだろうが、事実馬鹿馬鹿しい話だった。サバイバルだった。

 そこで一か月生き延びることが爺さんから与えられた修行内容であった。もちろん助けはない。恨み節の効いたパンチの一つでも爺さんにぶち当ててやると決意を固め、私と坂口の二人でどうにかこうにか、まるまる夏休みの期間中、山で生きていたのである。

 当然、熊も出るし、蛇も出た。よくわからない生き物にもあった。今思えば、あれは生き物じゃなかったかもしれない。まさに生き地獄だった。


「食うものには困らなかったろう」

「はあ? こちとら成長期だぞ? なめんなよな。木の実で誰が満足するか。古谷一行じゃねえんだぞ」

「その時も同じことを言っていた」

「よく覚えてるな」

「ああ、大切な思い出だ」


 坂口が薄く笑った。あの時も同じように笑っていた気がする。

 腹の虫が鳴った。


「仕事、するかあ」


 天井に向かってそう言った。坂口が立ち上がって、こちらをのぞき込むように見た。


「なんだよ」

「仕事だ」

「マジで?」

「ああ、だからこいつの手入れをしていた」鞘に納めた刀をこちらに見せた。

「なるほどね。かしこまりました」


 …………。


「え、てか仕事なら俺を通せよ」

「お前が寝ていたんだ」

「いつ?」

「昨日の深夜だ」

「寝てたな」確かに私は寝ていた。「いや、起こせよ」


 坂口が玄関に向かう。もう靴を履いている。急いで追いかけた。


「わざわざ起こすまでのことじゃないと思ったんだ」

「仕事のことなのに? 言っとくけど俺がリーダーなんだぞ。お前は助手」

「ああ、分かっている」もう玄関を開けた。早い。私も急いで靴を履く。

「で、仕事内容は?」

「なんでも俺たちにとある組織の幹部を消してほしいらしい」

「とある組織? ヤクザは勘弁だぞ」

「残念だが、そのヤクザだ」顔の血の気がすっと引いた。

「断ろうぜ。俺まだ生きてたいです」

「無理だ。もう前払いでもらっている」


 そう言って坂口が懐から札束を見せた。自然と喉が鳴った。


「なあ、それさ、それだけもらってさ、飯食って、さいならってのはどうですか?」

「無理だ」

「なんで」


 坂口がおもむろに服を脱ぎだした。とそこには。


「失敗したら俺は死ぬ」


 爆弾がご丁寧に蛇のようにぐるぐる巻きになって体にまとわりついていた。


「道理で今日はなんだかガタイがいい気がしたんだよなあ。そういうことなら先に言えよなー」


 はっはっは——ふっざけんな!!! お前の方がよっぽど危機一髪ゲームじゃねえか!!


「そんなわけだから、行くぞ。場所は東京湾近郊の埠頭だそうだ。今日、そこでヤクの取引があるらしい。そこを俺たちに強襲してほしいらしい。詳しい場所については追って説明すると言われたが——」


 そんなわけで済ませるなよ!


「ちょっと待てよ、何でそんな風になってるのに俺寝てたの? 起こせよ!」

「起こすのはかわいそうだったから寝かせていたんだ」

「いやいやいや! お前さ、お前の方がかわいそうだよ!」

「空腹で眠れなかったお前がようやく寝たんだ。俺のこれくらい、何ら問題はない。仕事を済ませれば済む話だ」

「騙されたらどうするつもりだ」

「騙されるより先にそいつも殺す」

「……さいですか。んじゃ、行くかあ。その前に飯食っていい? ほんっとに腹減って死にそう。爆弾が爆発するより先に死にそう」 

「それくらいの時間はあるだろ。時限式だからな」

「……あとどれくらい?」

「二時間と十分」

「じゃあ飯食えるな」

「ああ、ガストに行こう」


 ガスト好きだな、なんて話しながら私たちは部屋を後にした。とりあえず腹ごしらえをして、一週間ぶりのご飯に舌鼓を打って、仕事を全うする気でいた。ところが、夕食時に重なってしまったせいで、並ぶだけ並んで埠頭に向かうことになってしまったのである。あれほど人生に絶望したことは後にも先にも、今のところはない。

 しかし、その埠頭でママこと——舟屋に出会い、結果満腹にしてもらったのだった。


——◇——◇——◇——◇——


 夢現つ、といった様子だった。昔のことを思い出していた。夢に見て、ああそんなこともあったなあと思い返していた。

 どうして坂口はなすがままに爆弾なんてしかけられていたのだろう、と不思議に思っていたが、恐らく、あいつは本当に私が眠りについたのを見て起こすのを不憫に思ってやられるがままでいたのではないだろうか。そう思うと、悪いことをしたなと思う。

 もう、謝ることもできないが。

 橙に染まる天井を見て、暇だと思う。暇すぎてこんなことを考えている。よっぽど暇だ。存分に寝た気でいたが、カーテンの向こうからは夕日が差しているので、まだ夜ですらないらしい。

 白い病室は白いからこそ橙に一色に塗りつぶされていた。

 がらりと音がして、また的屋がやってきた。


「お前飯食えるか?」


 火の付いていない咥え煙草は夕日に照らされて燃えているように見える。


「今ならたくさん食えそうだ」

「なら、ママに言ってくんぜ。今張り切って作ってるからマジで覚悟しといた方がいいぞ」

「大丈夫だ。今は本当に空腹なんだ」


 昔を思い出したから、あの頃のように食べられる気がした。

 それで滋養をつけて、あいつの仇を必ず討たなければならない。

 それが私に出来る弔いだから、こんなところで休んでいる時でない。

 決意して起き上がる。的屋がドアを開けてこちらを見ている。


「屋号会のかしらの復帰記念だ。今日はぱーっと行こうぜ」


 そんな私を見たからか、的屋がテキトウなことを言った。

 しかし、悪くない。

 入院着は死に装束ではない。再起リベンジするための勝負服だ。

 

「せっかくだ、みんなで食べよう。他の連中も集めてくれ。ママには、迷惑かけるかもしれないが」

「もう集まってますよ、料理はもう少しかかりそうですけど」


 的屋の後ろから薬屋が顔を出した。その向こうにみんないる。

 なんだ、もういたのか。


「ほら、主役はおめえだ。肩貸そうか?」


 にやにやとして的屋が寄ってくる。


「俺以上に病人のようなお前に借りるわけないだろう。代わりに俺が貸してやろうか?」

「いらねえよ。俺ァ肩を借りるなら絶世の美女って決めてんだ」

「そうか。じゃあまあ、二人とも、独りで歩いていくか」

「そうしようぜ。リハビリにちょうどいいだろ?」


 お互いに口角を上げた。

 薬屋が肩を竦めた。

 花屋が花瓶に花を生けている。

 楽器屋が扉を開けてくれている。

 鍛冶屋が反対の扉にもたれている。

 布屋が食器を配っている。

 肉屋が料理を運んでいる。

 舟屋ママが奥の部屋から顔を出して私たちを呼んだ。


——◇——◇——◇——◇——


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