第41話「宵闇の美学」(3)
一週間も経てば、生活になんら支障がないほどに回復した。スポ根漫画の言葉を借りるわけではないが、最後に大事なのは根性なのかもしれない。そんな冗談で済ませるわけにもいかないが、部署がそこまで監視の目が行き届いていないことが幸いして、少しばかり取り込み中だったことにして事なきを得た。まさか裏稼業が犯罪者集団であるなどということは絶対に知られてはならない。これまでも何度か危ない橋を渡ったことがあったが、その都度肝を冷やしたものだ。今回も例外ではない。
ふらりと部署に立ち寄ると、険しい顔をした十津川さんがいた。入り口近くにいた早瀬に何があったのかを尋ねる。
「実は、十津川さんが追っていた事件がまた”迷宮入り”しちゃったんです」
小声でそう言われた。十津川さんが追っていた事件はこないだ、私が手を下したサラリーマン——阿山の関係していた事件だった。
「なんでも容疑者——候補が急に姿を消しちゃったって。もしかすると組織的な犯罪で、消されちゃったんじゃないか、ってのが上の見解らしいですけど」
「それであんな剣幕になるか?」
「もう、鈍いなあ」早瀬がむすっとした。
「それで、そのあとはいつも通りです」
ああ。なるほど。また上から現場に関わらないように管轄を外されたのか。
そりゃあんな剣幕にもなるか。
毎度のことながら少し申し訳ない気持ちになる。
「まあ今回はそれだけじゃないんですけどね」
早瀬が小さく耳打ちしてきたので、もう少し話を聞こうとした時、怒号にも似た声が部屋に響いた。
「おい早瀬ェ! 早く茶ァ持ってこんか!!」
隣で小さく悲鳴を上げて、「ただいまー!」と言いながら早瀬は足早に茶入れに向かった。災難だな。彼女の背中に同情しながら十津川さんの元へ向かう。
「お疲れ様です」
声をかけると、十津川さんは禁煙パイポを苦々しく噛みながらぎろりとこちらを見た。近くに来てみるとなおのこと不機嫌であることがよくわかる。ガキ大将がそのまま大きくなったようなふてぶてしい態度をしている。
「おめえか」
「はい、おめえです」
「どこほっつき歩いてた」
「このあたりを。それで、十津川さん」
「なんだよ。早瀬ェ!」部屋の隅から弱弱しい悲鳴がする。
「ずいぶんとかっかとしてますね」
「ああ? ニコチンが切れてんだよ」
「パイポを咥えてるのに?」
「パッチがねえんだよ」
「そりゃ大変ですね。ところで管轄外になったとか」
がりと音を立てて禁煙パイポが砕けた。
「また折れやがった」
クソッタレ、と十津川さんがほかの禁煙パイポを取り出して咥えた。そりゃそんだけ強く噛んでいれば壊れもするだろう。つうかそんなに噛むもんじゃない。
「ああ、上がな」
「上?」
「警視総監様直々にな」
と、早瀬が十津川さんのお茶をもってやってきた。どうぞ、と湯のみを差し出す。十津川さんは短くサンキュと言って、すぐに口に運んだ。
嘆息を漏らす。しかし眉間に皺は寄ったままだ。
「なんにせよだ。気ぃ付けろよ? 上に目ェつけられるとおっかねえぞ」
「それは重々承知ですが」
「なんだ?」
「どうせ十津川さんのことだ。諦めてないでしょ」
「当たりめえだろ。あんな事件、普通じゃねえんだ。普通じゃねえってことは、一課だの二課だの、いくら捜査本部を立ち上げて膨大な数を用意したとしても素人にゃ敵わねえ。下手したら代々木の犯人どころかその後ろにいるやつらの尻尾すらつかめずに殉職する可能性だってある。キナ臭えってのに、上は脅威に気付いてねえ。あの頃からそうだ。あの時だって、もっと慎重に動いてりゃ——」
十津川さんらしくない言葉だった。
「すまねえ、忘れろ」
「忘れられるわけないじゃないですか」
忘れられるわけがない。私が関係しているのだから。
「とにかく、上にも気を付けろ。気ぃ抜いてると思わぬところで足を掬われるどころか引っ張られちまうかもしれねえ。俺はもう少しこそこそやっとくからよ。にしても気に食わねえ。あのクソ狸めが」
またがりと音を立てて禁煙パイポが砕けた。短く舌打ちをして十津川さんが新しい禁煙パイポを咥えなおした。だからそんなに噛むものじゃないだろうに。
十津川さんが席を立って、背広を肩にかけた。
「んじゃ、早瀬、あとのことは任せたぞ」
「え? どちらに行かれるんです?」
「ちょっくら煙草買ってくらぁ」
ワイシャツの袖をまくり上げ、丸太のような腕を上げてひらひらと手を振って十津川さんは出て行った。
「禁煙は諦めないでいいのに」
「ごもっともだな」
「先輩からも言ってやってください、って先輩も喫煙者でした……困っちゃうなあ。今回は諦めるって言ってたのになあ」
「諦めてたら、迷宮入りした事件の資料を後生大事に持ってないでしょ」
十津川さんのデスクを眺める。無造作に資料が置かれている。それは——後生大事にではなかったかもしれない——こないだの代々木公園の怪事件に関するものだった。容疑者候補のリストの中に何となしに丸印で囲まれている名前があった。阿山だった。あの男は横領に手を染め、人を殺していたが、独断でそんなことをするとは到底思えない人物だった。そして、あの時あの場にいた万事屋——あいつが確実に裏で手を引いていることは間違いないだろう。そもそもあの代々木の怪と呼ばれる殺害方法は凡の人間ではまず無理だ。
十津川さんの言う通り、一課だの二課だのと言っても、そういう事情に疎い連中が束になってかかったところで二束三文の命だ。やつらは殺しが本業の連中だ。しかし、だからこそ、十津川さんを止めたのかもしれない。十津川さんはひいき目なしに有能な刑事であると豪語できる。
そもそもそうでなければ、あの人は——屋号会を追っていない。
今までも迷宮入りした事件というのはそもそも犯人を検挙するきっかけがなく、うやむやにされているから犯人を”消す”という愚直で非人道な方法を取った物ばかりだ。ゆえに、曲がりなりにも警官という立場にある十津川さんにとって、屋号会というのは検挙すべき犯人一味なのだ。
そして恐らく、十津川さんは代々木の怪の裏で糸を引く存在というのが”屋号会”であると考えている。確かに、我々が一枚嚙んでいるのは真実であるが、それは十津川さんが考えているような犯罪組織としてのものではない。
だからこそ、せめて、そこだけでも理解してほしいのだが、それもまた到底無理難題だ。
去って行く十津川さんの背中を見送って、私も外に出ることにした。
「もう行っちゃうんですか?」
早瀬が寂しそうにこちらを見る。仕事しろ、と私も言えたものではないが。
「気を付けてくださいね。最近、物騒ですから」
「その物騒をどうにかするのが俺たちの仕事だろ?」
「えへへ、そうでした。でも私事務ですし。そちらは任せます」
上野あたりで買ったのであろうパンダのマグカップでココアを飲みながら早瀬が自身のデスクに向かった。
「それじゃ行ってらっしゃいませー」
早瀬の声を背中に私もその場を後にした。
しかし、やはり十津川さんの刑事の勘というやつは侮れない。今までもたびたび驚かされてきたが、今回も吃驚した。なぜ、阿山という男を見つけたのか。先ほど見た資料には二つ、名前が囲まれていた。もう片方は仁見。あの時のもう一人いた男だった。計画を練ったのはあいつで、実行犯が阿山。私は彼と話したからこそ分かることだったが、なぜその名前に行きついたのだろう。十津川さんは犯人を思いつくと丸印でその名前を囲む癖があるが、まるで予言のごとく当てていく。今回もそうだった。
何か、私の知らない秘密裡の情報源があるのだろうか。
考えていても仕方ない。仕方ないが、これからはより慎重に十津川さんに気を付けるべきだろう。あの人に屋号会であることを感づかれてはならない。
署より外に出て、道なりに進むと無駄に外装が綺麗に磨かれた無駄に目を引く車があった。的屋だ。
「よう刑事さん。元気かい?」
「ここらに来るなっつったろ」
「そういわれてもなあ。急ぎなんでね」
悪びれもせず、煙草を咥えて運転席に飛び乗った。助手席に乗り込む。
「万事屋の情報が入った。ママのところで情報屋を待たせてる」
言うが早いかアクセルを踏み込んで的屋は車を走らせた。
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