第9話「それは楽器屋の美学」(1)
06
七月七日。
午前八時——荻窪。
自宅であるワンルームで金髪を垂らしてぐうすかといびきをかきながら男が寝ていた。彼の活動時間は主に夜。いつも通り昼間の一二時まで眠りこけ、自然と目が覚めてから彼の一日は始まる。
ところが今日はそうとも行かず、昼から予定があった。ぐっすりと眠る男の部屋で予定されていたアラームがけたたましく泣き叫んだ。大好きなバンドの楽曲が流れ始める。鼓膜をつんざくような大音量が狭い部屋に響く。痛いくらいに騒々しい音楽を垂れ流すコンポはベッドから数歩離れたところにあり、ベッドから起き出なければとめることができない。
最悪な目覚めだった。アラームに選ぶほど大好きな曲ではあるが、嫌いになりそうだった。
昨日、というより、今日の朝四時に眠ったので、まだ四時間ほどしか時間が経っていない。強引に起こされて彼の顔は不機嫌だった。
「うっせえ……」
朝までしこたま飲んだアルコールはまだ抜けきっていない。頭が痛い。頭痛に拍車をかけるように歪んだギターリフが部屋中に響き渡る。
のそのそと布団からはい出た男は四つん這いになってどうにかコンポまでたどり着いた。かりかりとツマミを回して音量を下げる。その場で力なく倒れて、冷たいフローリングに頬をつけた。冷たくて気持ちがいい。
気を抜けばここで眠れるくらい、それくらい心地よかった。しかし今日は大切な用事がある。ここで二度寝をして遅刻でもしてしまったのなら、あいつはきっと許してくれるだろうけれど、それが申し訳なくて顔を上げた。
腕に力を入れて体を起こす。乾いた喉でああ、と息を吐き出しながら目を覚まそうと首を回した。ごきごきと骨が鳴る。まいっちまったなあ、寝不足だなあとぼそぼそ言いながらシャワーに向かう。昨日着たままだった服を脱いでそこらへんにぽいと投げる。
シャワーを浴びながら、今日のライブで歌う曲をアカペラで歌いだした。浴室は声がよく響いて歌っていて気持ちが良かった。少しずつ喉が開いてくると、高音も問題なく出せるようになってくる。長い時間シャワーを浴びていたが、最後の方は十分すぎるほど本気で歌っていた。
あいつの話ってなんなんだ、と昨日突然かかってきたバンド仲間からの電話の内容を思い出す。
明日二人で会えないか、どうしてもお前と話がしたいんだ、とドラムの
シャワーを終えて、さっぱりとした頭で考えるが、やっぱりわからなかった。まあいい、会えばわかる。今日の一○時に新宿のいつものファミリーレストランで会えば、きっとわかる。男は体をさっさと拭いてとっとと着替えて家を後にした。
新宿までは電車に乗って一本で行ける。中央線は今日も案の定遅延していた。荻窪の駅であくびをしながら電車を待つ。スマホを取り出して時間を確認すると、時刻は九時二〇分を過ぎている。このまま遅延が進むと間に合わないだろう。
まずったな、と自販機にコーヒーを買いに向かう。自販機の前に立って、小銭をいれたところで、レッドブルが眼に入った。こっちのほうが今の自分には必要かもしれないと思い、もう百円を入れる。がこりと缶が出てきた。それを手に取ってまた列の後ろに戻る。
ぷしゅり。プルタブを起こして一口飲んだところで列車が駅に入るとアナウンスが流れた。いつものように謝罪が付加されているアナウンスだった。
男が並んだ列はすでに二列になって一○名ほど並んでいて、もし入ってくる電車が混みあっていたなら、サウナのような状態になるだろう。シャツ一枚でも汗ばんでいるのに、勘弁してくれと思いながら男は缶の中身を飲み干した。
片手でぐしゃりと握りつぶしてゴミ箱に放ると、綺麗な放物線を描いてその中に吸い込まれていった。おお、と後ろのほうで拍手が起きる。どうも、と頭を掻きながら気恥ずかしそうに後ろの拍手した数人に頭を下げた。
ようやく電車がやってきた。予想通り、その電車の中は混み合っていてすし詰め状態だった。何人か降りたが、それでもこれから乗車する人数の方が多いので車内のすし詰め状態は悪化の一途をたどるだろう。遅刻するわけにはいかないので男は電車に乗り込んだ。
車内では冷房がついていたが、人の熱気の方が勝っていて、ハンカチや袖口で汗を拭う姿がちらほら見えた。身動きの取れない状況で、男はどうにか掴んだつり革に両手をかけてがたがたと揺られている。
ふと、香水の匂いが鼻についた。執拗なまでにつけられたであろうその匂いは優しく香ることはなく、他の汗の匂いと混じり合って悪臭と化している。レッドブルを飲んだのが仇になった。胃の中にあるものを全て戻しそうになるのをどうにかこらえる。電車の揺れが戻してしまえと催促するが、男は必死に口をつぐんだ。
およそ二〇分ほど、時々停車を繰り返しながらゆっくりと走った電車は新宿駅に着いた。ようやく目的地についた乗車客たちは車内からどろどろと熱に溶けだしたように降りていく。その中に男もいた。
降りてすぐのところにあった階段を駆け下りて、トイレへ向かう。運よく空いていた大用のトイレに駆け込んで、我慢していた吐き気を解放した。胃液が口の中に残る。酸味が気味悪かった。全てを水に流し、洗面台で口を濯ぐ。
駅を出て一人新宿の街を歩く。いつも新宿でバンド仲間を落ち合って、ファミリーレストランで腹ごしらえをしてから渋谷のスタジオに向かう。そこで時間を忘れて練習をしたのち、今度は渋谷の繁華街で酒を飲む。そうやって結束を深めてきた。金はないからいつも行く店は安くて値段相応の店だったが、仲間と同じ飯を食い、酒を飲み、夢について話すことが楽しかった。
夏の太陽はさんさんと照っていて、男の白肌を焦がすようだった。いつの間にかファンたちから付けられたイメージのせいで逆立った金髪に透き通る白肌のワイルドかつ繊細な貴公子、でいなければならなかった。
なのに今日は日焼け止めを塗るのを忘れてしまった。失態だ。
といっても、そのファンだって、ステージの上にいる男の姿しか知らないから、すれ違っても今の男が自分の恋い焦がれる貴公子だとは思わないだろう。
なにやら英文のプリントされたシャツにタイトなレザーパンツ、長く伸びた金髪はさらりと風になびいてワイルドな姿はどこにもない。そもそも髪を逆立てただけでワイルドなんて言われてしまっていることが男にとって不服だった。貴公子と呼ばれるのは嬉しかったが、正直、自分がワイルドであるとはとても思えない。知り合いに数人、本物のワイルドがいるからなおのことそう思っている。
五分も歩けばそのファミリーレストランについた。中に入ると、鎌ヶ谷の姿を見つけた。寄ってきた店員にあいつの連れです、と言ってそのまま席に向かう。
よう、と声をかけると、お前にしては早いな、と鎌ヶ谷は笑った。それから男の顔を見て、顔色が悪いぞ、とその仏のような顔にある立派な眉をハの字にした。いつも鎌ヶ谷は気が利いて優しい男だった。
「さっき電車で酷い目にあったんだ」
さっきのことを思い出して、また吐き気に襲われる。うっと唸ると、ちょっと待ってろ、と言って鎌ヶ谷は席を立った。男の前に水が置かれた。ありがとう、と言ってそのまま水を飲み干す。少し落ち着いたところで、男は鎌ヶ谷に話って何だと問いかけた。
鎌ヶ谷はまた困ったような顔をして、「その前に飯でも頼まないか」と言った。
「俺はいい。今食ったらまた吐きそうだ」と男が苦い顔をすると、鎌ヶ谷はそうか、と返して、店を出ようと提案した。
「人が食ってる姿を見てもいい気持しないだろう」
優しい笑顔で自分が飲んでいたコーヒー代だけ支払って、鎌ヶ谷は男に出よう、と催促した。男にとってありがたい申し出だった。
二人は店を後にして、新宿の街を再び歩く。鎌ヶ谷が、そういえば、と思い出したように男の方をみた。
「お前日焼け止め塗ってるか?」
いつもそうだった。鎌ヶ谷は男が忘れてしまったことによく気付く。忘れちまった、と男が返すと、だと思った、と言って、小さなショルダーバッグから日焼け止め薬を取り出し男に渡した。ありがとう、と男が受け取る。
「いつも持ち歩いてんの?」
「まあな。一応、俺リーダーだし。みんなのことを気遣ってやらなきゃ」
「お前、ほんと良いやつだな」
男が近くの花壇に座って日焼け止め薬を塗りながらそういうと、やめろよ、と鎌ヶ谷が照れ隠しに笑った。陽に当たる部分だけさらっと塗り終わって男はその薬を返す。
「さて、じゃあ行くか」
鎌ヶ谷がなるべく影がある方を選んで歩く。細かい気遣いが出来る鎌ヶ谷に男は頭が上がらない。
どこに行くのだ、と男が聞くと、新宿御苑に行こう、と提案した。別段断る理由もないのでそのまま着いていく。少し歩くことになったが、気晴らしにちょうどよかった。
新宿の街は平日だというのに、今日も行き交う人が多い。歩きづらいな、と男が思っていると、鎌ヶ谷がこっちだ、と手を取った。細い裏路地に入る。陽も頭の上を遠く過ぎて、薄暗くなったそこはひんやりとしている。
「よくこんな道知ってるな」
「ああ、こないだ見つけたんだ。バイトで急いでいた時にな」
「バイト? 喫茶店じゃねえの?」
「ちょっとな、金が要りようになってしまったから二か月前からメッセンジャー始めたんだ。体力つけるのにはもってこいだった」
道理で最近こいつの体格が前にも増して屈強になったわけだ。特に脚がアスリートのようにたくましくなっていた。
男が「金が必要になったって、何かあったのか」と尋ねると、「御苑についたら話す」とだけ言って、鎌ヶ谷は前を向いて歩き始めた。それ以降、会話もなく、ただただ歩いた。二〇分ほど歩いて、ようやく、新宿御苑にたどり着いた。
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