第10話「それは楽器屋の美学」(2)
新宿御苑は閑散としていた。時間がまだ午前中で、昼前ということもあり、ランチを食べる人や、お昼休みにここでゆっくり過ごす人などはまだいない。
何組かの幼子を連れた母親たちが目の届く範囲で子供たちを遊ばせているくらいで、時折子供たちのきゃあわあと甲高い声が遠くから響いてくるものの、新宿の街とは打って変わって静かなものだった。
木陰になったベンチに二人は腰を掛けて、一息つく。それで話ってなんだ、と男が切り出すと、それは、と鎌ヶ谷は口をつぐんだ。
男はそのまま、鎌ヶ谷が話し出すのを待つ。腕を組んで、足も組んで、ベンチにもたれて遠い空を眺めた。天気の良い今日は空は青々と広がって、雲は遠くにちらほらとあるばかりで、青天、という言葉が似合っていた。
顔を空に向けたまま、男は横目で隣でどう話そうかと考えている鎌ヶ谷の様子をうかがった。気が利くのに、優しいのに、相手のことをよく知っているのに、自分のことはあまり得意ではない鎌ヶ谷らしい、困惑した表情だった。
自ら話があるといったのに、こうなることは男はなんとなくわかっていたので、別段、取り留めることもなく、怒ることもなく、静かに話し出すのを待った。
ベンチに座る二人にふわりと風が吹いて、少しだけ涼しい。ほのかに、頭上で傘になっている青葉の匂いがした。その時、鎌ヶ谷が実は、と口に出して、つっかえないように、ふうと息を吐いた。
「実は、俺、バンドをやめようと思うんだ」
鎌ヶ谷の目はいつも以上に実直であったが、悩んでいるようで、悲しそうでもあった。突然の宣告に男は目を見開いた。言葉が出てこない。
「親父が倒れてさ。病気になっちまって。一命は取り留めたんだけど、まだ仕事に復帰できなくて。母さんもまいっちゃって。それで、俺長男だし、弟はまだ中学生だし、もう、そろそろちゃんと働いて、母さんを助けてやりたいんだ。親父の仕事は難しいし、でも、親父社長だし、俺も少しは齧っていたから多少は出来ると思うし、まだまだ親父には及ばねえけど。だから。バンドはもう、続けられない」
男にとって、鎌ヶ谷がバンドをやめるということは、親に死なれることと同意であり、心身が引き裂かれる思いだった。喉で何かがふたをするように言葉の出てこず唖然としている男に対し、鎌ヶ谷は「お前とは付き合いが長いから、だから最初に言っておきたかったんだ」といつものように優しく笑った。
「バンドは続けられないけど、会えなくなるわけじゃないし、一応、お前の音楽活動にこれからも付き合っていけるとは思うし。それは俺の頑張り次第と、お前の頑張り次第だろうけどな」
いやあ、参った。と無理に大きな声を出して、鎌ヶ谷は男と同じように空を見上げた。ぼそりと、「いい天気だなあ」と鎌ヶ谷は言ったが、男には聞こえていなかった。
男は目をぱちくりと何度も瞬きさせて言葉を探しているようだが、まるで見つからない。涙がこぼれそうになって、それをどうにか引っ込むように念じるけれど、一向に引く気配はなかった。
ぽたり。男の履きつぶしたレザーパンツに水滴が一滴沁みていく。
思えば、鎌ヶ谷と出会ったのは中学生の頃で、その頃からもう十年の付き合いになる。あの頃、周りの聴く音楽と趣味が合わず、一人孤独に音楽室の隅っこでギターをかき鳴らす問題児であった男に、俺もその曲好きなんだ、と微笑んで、セッションしようと提案してきた鎌ヶ谷は今と変わらず無駄に体が立派で、中学生だというのに、大人のように見えていた。
鎌ヶ谷は、その当時男が好きだったエリック・クラプトンやビートルズの楽曲をイントロを聞いただけで曲名を当ててみせた。これは本物だとにやけた男に、俺の好きな曲はこれなんだ、と男からギターを借りて弾いてみせて、それから二人はバンドの真似事をするようになった。
高校生になって、高校も同じだった二人はついにバンド仲間を集めて演奏をするようになった。そして大人になってからも、他のバンド仲間は入れ替えがあれど、ずっと、二人は同じバンドで、二人で楽曲を作り続けてきた。
いわば、鎌ヶ谷康太という男は、男にとって、家族のように大切な気が置けない親友であった。
その鎌ヶ谷がついにバンドをやめるという。
「俺に、できることってないか」
男が絞り出した言葉はそれだけだった。けれどそれが全てだった。その短い言葉に様々な想いがこもっていた。そうだなあ、と鎌ヶ谷は首をひねる。
「お前がずっと、音楽を続けてくれたら。それが俺がお前に頼みたいことかなあ」
鎌ヶ谷がそう言って笑う。笑ってから、男が泣いていることに気付いて、あたふたとした。
「お、おい。大丈夫か? また具合悪くなっちまったか?」
「具合も悪くなっちまうわ! お前、お前がバンドやめるって」男が噛みつくように言う。
ごめん、と鎌ヶ谷は眉尻を下げた。でも、もう決めたことなんだと、困った顔をした。
「あ、それともう一つ頼みがあるんだ。今夜のライブが、俺にとって最後のライブになる。それで、俺はお前に演奏してほしい曲があるんだ。というか、俺がお前と一緒に演奏したい曲があるんだ」
これなんだけど、と鎌ヶ谷はショルダーバッグから小さく折りたたんだ楽譜を取り出して男に渡した。数枚の楽譜を受け取って男はしっかりと目を通した。懐かしくて笑ってしまう。
二人が中学生のとき、親友になるきっかけになった曲だった。英語もまるでわからないし、意味なんて知らなかったけれど、それでも聞いたときに心が揺さぶられて、頭をくっつけて意味を調べたりして、良い曲だと二人で笑い合ったあの曲だった。
「できるだろ?」
鎌ヶ谷がそう尋ねて、男は当たり前だと涙を拭った。だけど、と付け加える。
「まさかそんな話だと思わなくて、ほら」
男が手を広げてひらひらさせた。
「何も持ってきてない」
「見ればわかるさ。それは今夜ライブの前に合わせよう」
「オウケイ。ほんじゃま、腹減ったし、飯行くか」
「もう大丈夫なのか。ちょうどよかった、これ以上は我慢の限界だったから」
鎌ヶ谷は苦笑いをしながら自分の腹をさすった。ぐうと腹の虫が鳴く。
二人はタイミング良く鳴った鎌ヶ谷の腹の虫に一笑いして、最寄りの飲食店へ向かった。昼時前でまだ人は少なく、簡単に昼食にありつけそうだった。席に案内されて水とメニューを渡される。二分もすれば男は日替わり定食に決めたが、鎌ヶ谷は決めあぐねている。いつものことだった。
これも捨てがたい、あれも捨てがたい、こっちもいいし、あっちもいいなと目移りしている。少しの間その姿を見て、男は鎌ヶ谷にどれとどれで悩んでいるのだと尋ねた。すると鎌ヶ谷はハンバーグ定食と、カツカレーまでは決めたのだけど、とメニューとにらめっこを続ける。
はあ、と男がため息をつく。すまん、と鎌ヶ谷が一言謝って、何か言おうとしたところで、男が俺はカツカレーにするから少し食べればいい、と言った。
いいのか? と鎌ヶ谷が聞いてくる。それもいつものことだ。なんでも気が付くくせに、優柔不断でことこういうことは今までも何度となく繰り返されてきた。今更聞くまでもないだろう、と男はいいんだよ、と言ってテーブルに置かれた水を一口飲む。
ありがとう、と鎌ヶ谷は子供みたいに笑って店員を呼び、注文をした。それから一〇分もすると頼んだものがテーブルに運ばれてきた。小皿ももらって、男は自分のカツカレーをよそって鎌ヶ谷に渡す。俺も、とハンバーグを分けようとした鎌ヶ谷の手を男はいいから、と制する。
「俺はそこまで腹減ってねえから、これで十分なんだ」
食べたいけれど、分けてあげたい、その心情を行ったり来たりしてハンバーグのわける量を決めかねている鎌ヶ谷の姿を見て、男はいつものようにそう言った。鎌ヶ谷の顔は申し訳なさそうに眉を下げたり、どちらも食べれることが嬉しいのか笑顔になったり、忙しなかった。
と、男の電話が鳴った。席を外して電話に出る。
「おう、‟楽器屋”。今日ライブなんだって?」
「そうだけど、なに、もしかして葬儀屋さん来てくれんの?」
「ああ、今日は行けそうだからな」
「マジで? めっちゃうれしいけど、電話くれたってことは仕事か……」
「ああ、いや、今日はない。他の連中がもうだいぶ仕事してくれてるからお前は休み」
「そりゃ助かるよ。俺もちょっと今日は仕事したくなかったから」
「俺もだよ。これ以上死体を担ぐのはごめんだ」
電話先で葬儀屋がため息をついた。
「そんじゃ、これから花屋を送るからまた後でな」
「来るとき着替えてきてくれよ? 血の匂いがついてちゃ困るからな」
「わかったよ、そんじゃ。またな」
電話を切って席に戻る。楽器屋が席に戻ると、鎌ヶ谷はもう半分ほど食べ終えていた。相変わらず早食いだ。
「仕事か?」
「ああいや、先輩が今日のライブに来てくれるんだってさ」
「そうか、じゃあ頑張らないとなあ」
どんな先輩なのか鎌ヶ谷が尋ねると、楽器屋はカツを細かく切りながら、うーんと唸った。どんなやつだろう。いつも飄々としていて、けれども冷静そうで、けれども女好きで、どこまで真相を話しているのかわからないような節があり、本当の姿を知らない。知っているのは葬儀屋としての姿だけで、あれがそうなのかと言われても、なんだか違うような気もする。
カツカレーをスプーンですくってばくりと口に放り込んで、咀嚼しているうちに答えは出ず、飲み込んだのちに変な奴、とだけ言った。なんだそれ、と鎌ヶ谷は笑ったが、とにかく変な奴なんだと楽器屋はカツカレーを食べ進め、皿の上に残ったカツを一切れ、鎌ヶ谷に渡して、「早く食って準備に取り掛かろう」と会計に向かった。
二人は昼食を食べ終えて、店を後にすると、お互いに一度家に帰り、楽器材を持ってもう一度集まることにした。バンド仲間についさっきの曲目を追加したい旨を連絡し、今度は渋谷に集合することになる。
一度目の帰路の電車は静かなものだった。鼻につく匂いもなく、席もそれなりに空いていてゆったりと座れる状況だった。
とにかく今夜のライブは良いものにしたい。小さな箱ではあるけれど、鎌ヶ谷の引退に華を添えてやりたい。その前にまずは、他のバンド仲間が彼の決断を受け入れてくれるのか、それが心配だった。
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