第5話「それは花屋の美学」(1)
七月七日。
午前八時——東京都、神保町。
数多くの大学が隣接しており、学生街としての顔ももつこの町の一角に花屋「アイリス」はある。
その店先に立つアイリスの店主はまだ年端の行かぬ娘のようなあどけなさを残す可憐な女性だった。女性、なのでもうすでに成人はとっくに迎えているのだが、その低い身長も相まって幼さが強い。
以前は黒かった髪を明るめのブラウンに染めて大人のようにおしゃれをしている。店の制服であるそのエプロンの胸元には「IRIS」と刺繍がなされていて、頭につけた三角巾にも同じ刺繍があった。
彼女は店先に並べた花々に水を与えていた。大きなくりくりとしたその瞳を輝かせて、今日も綺麗に咲いたねえと声をかけている。
そんな彼女の姿を一目見ようとやってくる野郎どもも多かった。大学生もさることながら、下は小学生まで色気づいてやってくる始末だった。なにぶん顔が幼いので、とっつきやすいのかもしれない。が、いつもいつも真っ黒なスーツを着たまるで堅気からは大分道のそれた男を筆頭に様々な怖そうな男たちと仲良さそうに話している姿がよくよく目撃されているので話しかけようとするものはほとんどいなかった。まさしく高嶺の花である。
そんな彼女だけが足を運ばせるものではなく、アイリスという花屋がしっかりとした花屋で海外の花も日本の花も取り扱っているため、花好きなマダムたちも足繁く通っていたので、普通の花屋のわりにだいぶ賑わっていた。
今日は朝からその堅気からかけ離れているようなその男たち――それが葬儀屋などの屋号会の面々であるのだが――彼らがいなかったのでなおのこと男どもがぞろぞろと知りもしない花を一生懸命に見ていた。
それで彼女に取り入ろうとしているのかもしれないが、ほとんどの連中は、別に取り入る気もなく、単純に彼女を見て和みたいだけであった。
そんな中、今日は一人の勇者が現れた。彼女に声をかけようと足を一歩、また一歩と進めていたのである。
高嶺の花、という言葉がよく似合う彼女だが、その言葉通り彼女の存在は店に通う男たちにとって気高いものだった。そんな彼女に声をかけるという行為が果たしてどれほど心臓に悪いものなのか。
普段ならば確実に殺気を持った男たちがけん制をしてくる。しかし今日はその男たちがいない。だから普段に比べてずいぶんと話しかけやすかった。
その男は近所の大学に通う男子学生だった。腕時計を見る。時刻はまもなく一〇時になる。赤と青のチェック柄のネルシャツに、前面が色あせたジーンズに丸眼鏡をかけた彼は、ドクドクと高鳴る心臓をどうにか抑え込んで彼女に声をかけた。
あの、という第一声が思い切りうわずった。その声で彼女だけでなくその場にいた客たちが彼を見る。もう、なるようになれとそのまま話し続けた。
「僕、その、好きな人がいて、その好きなひとが僕のことを好きかどうかわからないんですけど、その人は最近元気がなくて、それでその、花を贈りたいのですけど何がいいですかね!」
彼の言葉は音量調節がぐちゃぐちゃで暴れまわっていた。しかしそれににっこりと微笑んで彼女は素敵です、と彼の汗ばんだ手を掴んだ。ぶんぶんと腕を振るう。なんだなんだと混乱する彼と、ちくしょううらやましいと歯ぎしりをする花を見るしかなかった男たちと、あら、恋が始まるのかしらとドキドキし始めた奥様方がいた。
「どのような花がいい、とかありますか?」
「あ、いえ、僕は花についてまるでわからないので、できれば教えていただけたら嬉しいんですけど……」
「かしこまりました! 少々お待ちくださいね!」
きらきらと輝かせた目でにっこり微笑んだ彼女がまぶしくてうっと目を反らしたその彼――
反らした先にそんな目を見つけて其葉はまた目を反らした。下を向いて彼女が戻ってくるのを待つ。
彼女は意気揚々と、いくつかの花を持ってえっほえっほと戻ってきた。その花を其葉の前に並べて彼女は、思い人はどんな方なんですか、と尋ねた。
其葉はぽりぽりと頬を掻いて、えっと、と話し始めた。
「すごく、すごくかわいいんです。幼馴染なんですけど、小さいころから気が強くて男勝りで負けん気もあって。身長も高かったから――あ、今でも僕より少しだけ高いんですけど――だから僕のことをよく守ってくれていたんです。でも料理とか裁縫も得意で。目が切れ長でしゅっとしているから怖いって思われがちなんですけど、そんなことなくて本当はすごいかわいいんです。実は可愛いものも大好きだし、子猫とか、捨てられてると放っておけなくて拾って来たり、ぬいぐるみも大好きで部屋にはいくつか隠れて持ってるし、小さいころは僕のお嫁さんになるって言ってくれてて、それで、花も好きだから、見たら喜んでくれるかなって。あっ、あっ……すみません……」
其葉はびっくりするほど流暢に話した。そしてそれからあっという間に頬が紅潮していき、爆発してしまうのではないかというほど真っ赤に染まった。
周りにいた客たちは(主に奥様方は)彼の味方になった。花を見続けていた男たちも、見ず知らずの彼の恋の行方に応援する態度を取り始めていた。
「いいんです、とっても好きなんですね。よければもう少しお話を聞かせてもらえませんか?」
彼女のその言葉に其葉は気をよくして、はい、と返事をするとさらに話をつづけた。
「小さいころはよく花を贈っていたんです。僕、いじめられっ子だったので、
其葉春真と
幼いころから引っ込み思案で友達付き合いが下手だった其葉は何かといじられる位置に置かれたらしい。軽いパンチから始まり、キックなどをヒーロー戦隊の悪役に位置付けられた彼はテレビの向こうの悪役のようにヒーローをピンチに陥らせることはなく、一方的に、それはサンドバッグのように打ち当てられていた。
しかし彼は悪役ではなかった。ゆえに彼の前にはいつもヒーローが現れた。男の子と相違ないほどのショートヘア―で快活そうな半袖短パンで、そのヒーローを模した男連中にドロップキックをぶちかます、此賀だった。
いつも男連中を蹴散らすと、大丈夫か、と手を差し伸べる。其葉にとって此賀は太陽のような存在だった。まぶしくて、温かくて、優しくて、いつも見守ってくれている。
男女とバカにされても、ぎろりと睨めばその言葉は空中分解して風に乗ってどこかへ吹かれていった。かっこよかった。とにかく、かっこよかったのだ。
その一方で其葉は頭がよかったので、高校からは進学校に通うことにしていたのだが、それを知った此賀はそんな彼についていった。どうしてかと尋ねると、あんたは私が守らないと心配だと笑われた。
今回の旧帝大学に進学するときもそうだった。僕には学力しかないからと力なく笑う彼に勉強を教えてほしいと頭を下げて彼女はついてきた。守護者のように。
そして二人は無事現役合格することができた。それが今年の春の出来事だった。家賃の都合で二人で部屋を借りて住んでいた。ところが先月、いつまで経っても帰ってこない日があった。何かあったのかと心配して携帯に連絡を入れるも返事はない。なんだか不安になった彼は頭が混乱してとにかく思い当たるところをしらみつぶしに当たることにした。
それは運命だったのだろう、と彼は言った。しらみつぶしで一番最初に彼女が働き始めたバイト先へ向かうとき、彼女を見つけた。車道にだらりと横たわって、体中から血を流していた。まだ息があったからとにかく救急車を呼んだ。運よくでかでかと「最中饅頭総本家」と書かれた看板があったからそれを目印に出来た。
救急車で運ばれた彼女は今もなおICUで眠り続けているらしい。
「僕は、守りたかったんですけど、いつも守られてばっかりで、今も僕は夏生ちゃんを守ってあげれなくて、それで僕に何ができるんだろうって思ったときに、夏生ちゃんが目を覚ましたその時に、部屋に花があったら、嬉しいかなってそう思ったんです」
其葉は歯を食いしばった。涙をこらえているようにも見えた。ふがいない自分を責めているようにも見えた。
まわりで好き放題にしていたガヤは、みんな通夜に並んだように静かになって、ひどい話だと嘆いていた。月並みな言葉が飛び交うが、誰もがきっとその言葉を認めておらず、見知らぬ赤の他人の事故に心を痛めていた。
花屋の店主の彼女は、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、言葉をぽつりぽつりと重ねていく。
「あなたは本当に夏生さんのことが好きなのですね。いえ、愛しているのですね。幼いころから守ってくれた彼女のことをとても大切に思っている。私はそのあなたの気高い心に見合うような花束を作ります。私、頑張らせていただきますよう!」
ありがとうございます、と、なにかすみません、をぐちゃぐちゃになった顔で其葉は伝えた。首を横に振って店主の彼女は泣いていた顔で笑顔を作った。
「任せてください。花で幸せを提供するのが私の仕事ですから」
店先にたたたと駆けて出てきた店主の彼女は目を見開いて、一面の花々を見る。待ってました、と何人かが声をかけた。何事かと其葉が困惑していると、近くにいた奥様方のグループの一人が、説明をしてくれた。
「あれはね、あの子の才能みたいなものよ」
「才能、ですか?」
「そう、素晴らしい才能ね、色彩と形状の把握能力がずば抜けて高いのか、それとも花のことを深いところまで知りえているからこそ成せる業なのか、わからないけれど、とにかくすごいの。見ててごらんなさい。あっという間に花束が出来上がるから」
まるで自分のことのようにその奥様は誇らしげに語った。とにかくすごいのよ、と後を押された。其葉も周りの”観客”のように彼女のことを見てみる。
彼女は眼だけを動かして、店先に並んだ花々をすらーっと見回したかと思うと、迷うことなく一点、また一点、とさっさっと花を集めていった。色とりどりのその花々を集めきった彼女はそのままレジ前のテーブルにウサギのように駆けていき、そこに古新聞紙を広げてその上に並べた。
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