第15話「それは鍛冶屋の美学あるいは布屋の美学」(1)




08


 七月七日。

 午前八時——高尾山。

 夏真っ盛りだと言うのに坂口大和は黒のコートに身を包んでいた。少し高く伸び立っている襟で口元が隠されて、見た目はひどく暑苦しい。けれども坂口は汗を一滴もかかず、涼やかな目をしている。


 ごんごん、と木製の門扉を叩く。武家屋敷が如く、しっかりとした門の向こうに、誰かいるだろうか。少しその門の前で立ち、待っていると、その門の向こうから閂を外す音がして、ひょっこりと小さな子供が顔を出した。


「おじちゃん! いらっしゃい!」


 にこにことして犬歯の抜けた笑顔を見せたのはこの家の子供の一喜かずきだった。齢は六歳ほどで、古風な門構えに浮いた現代的な服を着ている。暑いのか、首元が濡れて色が濃くなっていた。


「おはよう。師匠はいるかい?」

「そうだった、あいさつだった。おはようございます! いるよ、呼んでくる?」


 慌てて頭を下げてすぐにがばりとその顔を上げた一喜が坂口の返事も聞かずに駆け出した。相変わらず気が早い子だ。返事くらい聞いても困らないだろうに。危うく転びそうなほど足を回す一喜の背中を坂口は見送った。


 坂口は再び、その門の前で待った。辺りを見渡すと、東京都の一部だと言うのに、随分と緑が生い茂っている。ここに来るたび、地元の景色を思い出して、懐かしんでいた。


 葬儀屋と同じ宮城県に生まれた坂口だが、実家はもうない。時折帰るが、その時は決まって葬儀屋の祖父母の屋敷に世話になっていた。その屋敷もまた、この目の前にある屋敷と同様に長い歴史があるようで、それもまた、彼が郷里を思い出す一因になっていた。


 東京都八王子市。高尾山の麓にある七代目宮部源十郎の屋敷は、築百年を超える武家屋敷である。度々手入れをしているので、築年数の割に真新しいように見える。その敷地内にある離れは彼の仕事場であり、早朝からの鍛錬を終えた宮部はそこで自身の愛刀を鍛えなおしていた。


 髷のように、長く伸びた髪を頭頂部の後ろで結って、麻の着物を着流している。その姿は現代に生きる侍のようだった。


 がんっがんっがんっ。

 じゅううう。

 ごつ。

 がんっがんっがんっ。


 鉄が熱されて、叩かれて、冷やされて、リズミカルな音が離れから聞こえてくる。その引き戸を開けて、一喜は刀鍛冶の仕事をしている宮部を呼んだ。


「おとうさん!」


 引き戸が開かれた時には宮部はもうその手を止めて一喜を見ていた。


「どうした」

「おじちゃんが来たよ! 大和おじさん!」


 そうか、と宮部は短く答えて、立ち上がり、早く早くと急かす一喜を追いかけて離れを出た。離れから門までの距離は二十メートルほど。石畳を歩いて門まで来ると、一喜の頭に手を乗せた。


「よう。久しぶりだな」


 宮部は目を細め、口角をわずかに上げた。お久しぶりです、と坂口は頭を下げる。


「今日は、師匠に刀の手入れをしていただきたくて参りました」

「飯は食ったか」

「いえ、まだですが……」


 そうか、と言うと、宮部は一喜に「母さんにもう一人分用意してくれと頼んでくれ」と頼んだ。一喜はまた歯の抜けた笑顔を見せて、分かった、と短く答えるとだっだっと走って行った。


「すみません、朝食まで」

「気にするな。食卓というのは、人が多い方がいい」


 宮部が目で坂口に中に入るように促した。坂口はもう一度頭を下げて門の中に入る。つい今一喜が駆けて行った屋敷が目の前に広がる。いつ来ても、立派なものだと思う。屋敷に向かって二人は歩いた。


「いつ振りだ」宮部が隣を歩く坂口に尋ねた。

「半年ぶりでしょうか」

「そうか」

「一喜もだいぶ大きくなりましたね」

「ああ、今年から小学一年生になったからな。入学式のときの姿を見て、思わず泣いてしまった」


 ふふ、と宮部が小さく笑った。それに驚いて、坂口は目をぱちくりと瞬かせた。


「師匠も泣くのですか」

「当たり前だ。我が子の晴れ姿なのだから。お前は俺を何だと思っている」

「化け物、ですかね」


 間髪入れずに坂口がそう答えると、宮部は足を止めてため息をついた。それからまた歩き出す。


「ここに葬儀屋がいなくて良かった。お前は口数が少ないからまだいいが、あいつがいると輪をかけて騒々しくなる」

「それでも、師匠はあいつも気にかけてくださるじゃないですか」

「それは仕方のないことだ。俺の師匠があいつの爺様なんだからな。その師匠に言われてしまったら、気にかけなくてはならん」


 やってられん、と言いつつも、宮部の顔は穏やかだった。


「まずは腹ごしらえだ。それからお前の刀を鍛えなおす。ところで何人斬ったのだ」

「六十七人です」

「こないだ手入れしたのは、その半年前だったか。わずか半年でそれだけ斬ったか」


 嘆かわしいな、と宮部は目を伏せた。仕方のないことです、と坂口が重たく答えた。


「六十七人を斬らなければ、その数を倍にしても足りないほど人が死んでいました」


 坂口は苦い顔をした。斬ってきた者たちを思って、その死を認めて、自分の手を強く握った。


「それでも多かろう。一月に十一人を斬るとなると、よくもつな」

「……慣れましたから。それに、あいつが葬儀をしてくれる」

「それがお前の贖罪か」

「ええ、取るに足らない贖罪です」坂口は自嘲した。

「それでも、やれば少しは心が誤魔化せます」


 屋敷の玄関前で宮部は足を止めた。どうしたのだろうと宮部を伺う坂口を宮部はすんとした目で見た。


「俺はお前が心配だ。お前は優しすぎる。人殺しに向かって優しいなど馬鹿げた言葉だが、それでもお前は優しすぎる。お前は人を斬って自分を斬っている。悪人を斬って自分を悪人だと思い悩んでいる。こんなことを俺が言ってもどうしようもないが、やめてもいいのではないか」


 宮部にまっすぐに言われて、坂口は頭を振った。ゆっくりと二度振った。


「それはダメです。俺がやらなきゃいけないことですから。それが、俺の仕事です」

「どうしてそこまでするのだ」

「俺はあいつと約束したんです。あの日、あいつと交わした口約束は、口約束と言えども盟約なんです。それはもう俺の使命になった」

「あいつももういい大人だ。お前が子守をする必要もあるまい。同じ子守なら、うちの一喜の子守を頼みたいくらいだぞ」

「あいつは、いい大人の振りしたガキのままですよ。今も変わらず、あのままです。あのままでいてくれたら、俺はそれでいい」

「そうか」


 諦めたように宮部は目を細めた。この会話は今に始まったものではない。以前、半年前も同じようなことを話した。その時も同じように宮部は坂口にやめることを勧めたが、坂口は首を縦には振らなかった。


 と、玄関の扉が開いて、中から一喜が顔を出した。その顔は少し怒っている。


「早く食べないと僕遅刻する! まだ!」

「ああ、すまない、今行くよ」


 宮部が困り笑いをしてそういうと、もう、と頬を膨らませて一喜はそのまま中に戻って行った。


「とにかく、飯を食おう」

「はい。心配してくださってありがとうございます」

「気にするな。俺は師匠だ。お前は弟子なのだから――」


 宮部がそこまで言いかけたところで、家の中から「まだー!」と一喜の催促が飛んできたので、お互いに顔を見合わせて苦笑いをして、屋敷の中に入って行った。


 屋敷の中に入ると、宮部が趣味で彫った観音像が出迎えた。玄関から二、三歩ほど進んだところにどっしりと構えていた。それに一度礼をして、先を行く宮部に続く。


 食卓には、質素であるが、随分な量の朝食が並んでいた。白米に味噌汁、サラダに煮物、焼き鮭に目玉焼き。こんな朝食を食べるのはいつ振りだろうか。思い出してみたが、やはり、半年ぶりだった。


「お久しぶりです」坂口は、白米を茶碗によそう赤の着物姿の良く似合う妖艶な恵に挨拶をした。艶やかでこしのある黒髪を後ろでまとめている。同い年なのだが、見た目があまりにも古風な美女なので、どうも敬語になってしまう。


「お久しぶりです」静かに微笑んで恵は頭を下げた。それから二人にご飯をよそって渡した。


 さっきまでぷんすかしていた一喜は一足先に食べ始めていて、膨れていた頬は今はご飯でリスのように膨れていた。


「待たせてごめんね」


 坂口が謝ると、一喜はぶんぶんと頭を振った。何か言っているが、なにぶん、口がご飯でいっぱいなのでさっぱり聞き取れない。それを見た恵が、こら、と一言叱った。ごくりと喉を鳴らして口の中のものを飲み込んだ一喜が、気にしないでいいよ、とにこりとした。


 宮部と坂口が席につく。準備を終えた恵が席につくと、宮部が両手を合わせた。同じように坂口も恵を手を合わせる。それを真似て一喜も手を合わせた。


「いただきます」


 静かにそう言って、皆が箸を進める。一喜はついさっきもそうしていたというのに、律儀に挨拶をしていた。


 宮部と恵はまるでシンクロしているように同じく味噌汁から手をつけた。相思相愛となると、ここまで同調できるのかと、坂口は口には出さずに感心した。


 坂口はというと、目玉焼きに醤油をかけて、白身をおかずに白米を食べ進める。三人がご飯を食べ進めていると、先に食べ始めていた一喜が食べ終えて、ごちそうさま、と手を合わせて言うと、かちゃかちゃと茶碗の音を立てながら、キッチンへ自分の分を持って行った。


 さすがは小学一年生、と坂口が微笑むと、どうやら他の二人も同じ気持ちだったようで箸を休めて微笑んでいた。一喜の足音が遠くなっていく。学校に向かう準備をしているのだろう。


「偉いですね、一喜。ちゃんと自分の分は片づけるんだ」

「ええ、やるようになったのは最近ですけどね。お兄ちゃんになるから、って息巻いてるんです。嬉しい成長です」


 恵はふふふ、と手を口に当てた。


「あいつも男の子だからな。強くなろうとしているんだろう。一喜は最近、剣の鍛錬をするようになってな。まだ俺の真似事をしているくらいだが、そのうち、お前と稽古をすることになるかもしれないな」

「それは楽しみです。……」


 ん、お兄ちゃん?


「……お兄ちゃん、って言いましたか?」

「はい、二人目が出来ました」


 恵がくねくねと身を揺らす。頬は朱く染まって照れている。

 その隣では宮部が表情こそ変わらないが、そっぽを向いて、そういうことだ、と呟いた。


「お、おめでとうございます」


 坂口は優しく微笑んでそう言った。宮部と恵は二人してこくりと頭を下げた。そこに一喜が足音高く戻ってきた。


「歯ブラシコ粉ない! どこ?」


 はっとして恵が立ち上がろうとしたのを宮部が止めた。


「料理はお前が作ってくれた。これくらいは俺がやる」


 すみません、と恵が謝って宮部を見るが、その視線は熱い。

 ちりんと風鈴が鳴いた。

 俺は今、何を見せられているのだろう、と坂口は白米を口に放り込んだ。

 すたすたと一喜を連れて宮部が茶の間を後にした。その後ろ姿を愛おしそうに恵は見続ける。


 坂口は煮物に箸をつけた。タケノコが小気味良い食感で、食べていて楽しい。醤油や染みこんで美味い。味噌汁を飲めば、煮干しからダシを取っているようで、深い味がした。毎日こんなに立派な食事が食べれるなら、料理が得意な女性と結婚するのも悪くないな、と考える。けれどもすぐに、葬儀屋のあいつが何度も付き合うことに失敗していることを思い出して、俺にも無理だろうと自嘲した。


 あいつは今何をしているだろう。また行きずりの女と寝てひどい目に遭っていないだろうか。もういい大人なのだから、そこらへんは正してほしいな、と思いつつ、箸を進めた。


「すまん、恵、歯磨き粉はどこにあるんだ」


 さっき任せろと言わんばかりに出て行った宮部が頭を掻きながら戻ってきた。

 かっこよくねえ。


 しかし恵は源さんたら、と微笑んで、洗面台の下の棚の右奥にありますよ、と答えた。


「ほらな、一喜。父さんの言う通りだったじゃないか」

「でもお父さんが上だって言ったんじゃん! もう! 時間ないー!」

「すまんな、恵。ほら、母さんにありがとうは?」

「ありがと! お父さんご飯食べていいよ! 場所分かったから自分でできる!」


 一喜はまたとたとたと駆けて行った。

 その間にも坂口は箸を進めて、朝食を食べ終えていた。茶碗には一粒のご飯粒も残っていない。綺麗に平らげられていた。

 それに気付いた恵が、坂口にお代わりを勧めたが、十分いただきました、と礼をした。


「お口に合いましたか?」

「ええ、来るたびにいつも美味しいごはんをありがとうございます。ごちそうさまでした」


 恵はにこりと微笑んで、また朝食を食べ始めた。妊婦だからなのか、随分と食べる。見ていて清々しいくらいの食べっぷりだった。気づけば白米を一合は食べている。宮部はというと、ゆっくりと静かに食べていた。自分の分をすべて食べ終えて、ありがとう、と恵に言ったが、その口元に器用にご飯粒が一つ付いていた。それを見つけた恵が、またしても源さんたら、と照れてそのご飯粒を取ってぱくりと食べた。


「……恥ずかしいだろう」


 表情は相変わらず厳しそうなままだが、まんざらでもなさそうだ。

 何を見せられているのだ。と思っていると、一喜がぐわあっと走ってきて、行ってきます! と叫んでそのまま玄関へ向かって走って行った。


「忘れ物はないー?」


 恵の問いかけにないー! と叫んでガラガラと玄関の扉が開く音がする。


「いってきまーっす!!」


 一喜が駆け足で門へ向かうのが茶の間から見えた。ふと思い出したように足を止めて、「おじちゃんまたね!」と手を振った。坂口は優しく目を細めて、手を挙げた。それを確認したようで、ぐんとひとつ頷いて、一喜は走り出して、もうその姿は見えなくなった。

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