第26話「謝罪の美学」(5)
————◇◇◇◇————
その日も彼は頭を下げていた。
「大変申し訳ありませんでした」
彼には頭を下げるしか能がない、と周りの社員は口々に言っていた。今のこの仕事についてからもう二十年近く経つ。けれども彼は今だに係長止まりで、気付けば自分の上司になったのは、新人のころ、彼が教育指導をしていた男だった。
今、頭を下げている相手こそ、その男であり、後輩であるはずの男が課長という役職について、また彼に無理難題を吹っかけては頭を下げさせていた。どうしてこんなに理不尽な目に遭わなければならないのだろう、と彼は思うが、それもすべて、自分の力不足が原因なのだと半ば諦めていた。
今日、頭を下げていた理由は、営業回りで客に失礼をしてしまったということであったが、よくよくその話を聞いてみれば客の物言いはただ、「インターホンを鳴らされた」というあまりにもどうしようもないものだった。それでも、彼は文句のひとつも言わず頭を下げた。
思えば、確かに彼は謝り慣れていた。いつもいつも、謝ってばかりだった。
職場でも、出先でも、自宅でも、謝り続けてばかりだった。
いつからだったか、彼には蔑称がついた。
——土下座屋。それこそが、彼についた仇名。
いつも謝ってばかりだから土下座屋。
頭を下げてばかりだから土下座屋。
額を地につけてばかりだから土下座屋。
申し訳ありませんでした、すまない、ごめん、俺が悪かった。
いつもそうやって頭を下げていた。
「もういいよ。先輩さ、いい加減、そういうのやめてくれないかなあ。ウチの恥さらしもいいところだ。まったく、歳だけ取って、いつになったら給料に見合った働きをしてくれるんですかねえ。曲りなりにも一応は係長なんでしょう? このままだと平に降格させますよ」
彼はもう一度、頭を下げた。
「せいぜい、次回の会議までに成績上げてみてください。出来なきゃ、クビもやむなしですかねえ」
彼は、それはどうかやめてくれと懇願した。膝を折って、手と額を地につけて、頭を下げた。どうか、どうか頼みます、と頭を下げた。
「もういいですから。そういうね、アピールが嫌なんですよ。ほら、とっとと外まわり、お願いします」
足蹴にされるように課長のデスクから撤去される。彼はいつも笑いものだった。謝ってばかりの土下座屋。若い社員たちから敬ってもらうことなど塵にもない。職場に彼の居場所はなかった。
かといって自宅に居場所があるかと言えば、そんなことはなかった。
昔、読んだ小説に、主人公が自分と同じように仕事先で様々な無理難題や罵詈雑言を吹っかけられる話があった。けれども、その主人公は、家に帰れば、妻と娘がいて、優しく労ってくれていた。そんな二人のために主人公は一生懸命に働いた。働いて働いて、ある日、主人公は不治の病に冒されていることがわかる。そして、その主人公は自分が死ぬまでに家族に何か残そうと今まで以上に働いて、家と安い車を遺して亡くなる。そんな彼の遺してくれた家で、妻と娘は彼の思い出を胸に抱いて生きていく、といった話だったが、自分はどうだろう。
冷え切った夫婦仲で、娘も反抗期なのか、顔を合わせても挨拶すらしてくれない。妻に至っては、家に帰れば穀潰し呼ばわりで、自分はどうしてこんなに理不尽に言われなければならないのだろうと、独り、買ってきたコンビニ弁当を食べながら思う。
それでもやはり昔を思い出せば、妻も可愛かったし、魅力的で、幸せだった。娘だって小さいころは、パッパ、パパ、と、何かと自分の後ろをついて回って、目に入れても痛くない自慢の子だった。
今でも妻は美容に気を遣っているようで、四十過ぎには到底見えない美貌をしていて、確かに自分には不釣り合いだなと思う。娘もそう、可愛らしい容姿で、自分に似なくてよかったな、と思う。
けれども、今は、誰も自分に近い者がいないのであまりに寂しかった。
彼は、家族のために働いている。家族のために、無償で働いていた。
そんな彼にも息抜きはあった。それが、行きつけの喫茶店の「安住屋」だった。そこで春夏秋冬問わず、いつも黒のロングコートを着ている男にあったのだった。
それが、彼が掃除屋に出会ったきっかけだった。
去年の夏ごろ、思い切って彼が掃除屋に話しかけた。
「あの、失礼ですけど、暑くないですか?」
ちらり、とにらまれるように彼は見られたので癖で謝った。
「すみません、すみません、特に意味はないんです。あの、私はほら、この体形でしょう? だから夏は暑くて堪らないんですけど、あなたは見るといつもロングコートを着ているから、暑くないのかなあ、と思いまして」
彼は、消え入るようにすみません、と言って言葉をまとめた。
「慣れました。暑くはありません」
思いもよらない返事に彼は笑顔なんだか困っているのだか、よくわからない顔をして、そうですか、とだけ答えた。
「あなたもグアテマラをよく飲んでいますよね」
「え、ええ。私は、あまりコーヒーとか詳しくないんですが、妻が、まだ彼女だったころにあなたに似合うと教えてくれたので」
思いがけない。彼はまさか会話が続くとは思っていなかった。こんな風に人と話すのはいつ振りだろう。久方ぶりの会話に舌鼓を打って、店を後にするとき、掃除屋が、ではまた、と言って去って行ったのだ。
四十を過ぎて、ではまた、というその言葉にどう反応したらいいのか分からなくなっていた彼は、「ま、また」とくぐもって答えて、小さく、手を胸元あたりまで挙げた。挙げて、恥ずかしくなって、その手をだらりと下ろした。
それから、彼は週に一度ほど掃除屋と会って話す仲になった。別に大した話はしないが、顔を合わせてコーヒーを飲むだけで、まるで友人といるような感覚があって、彼にとってその週に一度の一時間程度のその時間は幸福なものだった。
そして今年の夏。彼は掃除屋が亡くなった現場にいた。正しく言えば、掃除屋の死体が落ちてきたところにいたのだ。
その日も今日のように彼は頭を下げ続けていた。感謝も謝罪も頭を下げて、毎日を過ごしていた。ちょうど外回りで悪質な客に引っかかってしまい、何度となく謝罪したあと、祭囃子に惹かれてふらりと足を運んでいた。少し息抜きをしようと、人の混み合う通りを歩いていた。行き交う人々に謝りながら、何か屋台らしいものを食べようかと物色していたときだった。
どさり、と音がした。ぐちゃり、と音がした。すぐそこだった。彼の真後ろから音がした。次の瞬間、耳をつんざくような悲鳴が辺りに響いた。ぼかんとして彼が後ろを向いたとき、見慣れた黒のロングコートが眼に入った。
信じられなかったが、それはいつも会っていたあの男のものだった。呆然とその姿を見て、彼は、言葉を失った。首から上がなかったのだ。
しばらくその死体を見て、ああ、と声が漏れた。
息抜きどころの騒ぎじゃなかった。目の前が真っ暗になったようだった。
その日から、時々缶コーヒーを買って、彼は献花の代わりにそれを置いていく。たまに、話をしていく。返事はないが、会っていたときから、掃除屋は聞き上手で彼の言葉に耳を傾けて、相槌を打ってくれていたから、今もそうなのだろうと、話をしていく。
今日は、そんな風に掃除屋が亡くなった場所で、思わず弱音を吐いたのだった。
「私は、生きていても、価値があるんでしょうか……職場でも、家でも、ろくに居場所がなくて、あなたとあんな風に話せて、とても楽しかったんです。四十過ぎて、人と話すのが、あんなにも楽しいものなんて、思いもしませんでした。掃除屋さん、私も、そちらに行けば、また、話を聞いてくれますかねえ。また、コーヒーでも飲みながら、話を聞いてくれますかねえ。ああ、思い返してみれば、私が話してばかりでしたねえ。といっても、いつも、同じような話でしたっけ」
それじゃ、と彼はその場を後にした。明日もまた、仕事が待っている。帰らなければ、妻が家事をさぼるなと怒ってくる。
重たい足取りで、彼は帰路についた。
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