第117話
正直に今の気持ちを伝えると、ファルゼフはセナの瞳を見つめたまま沈黙で応えた。彼は呼吸を止めている。ややあって、ひゅうっと息を吸い込んだファルゼフは幾度も瞬きをした。「失礼しました。動揺したのは随分と久しぶりのことでしたので」
どうやら驚いて固まっていたようだ。
表情が全く動かないので、わからなかった。
「そんなに驚きました……? やっぱり、迷惑ですよね。僕は神の贄なのに、こんなふうに心を揺らしたりしたら、いけないですよね」
「いえいえ……そんなことはありません。セナ様のお気持ちはとても嬉しいです。ただ、現在のわたくしはあなた様の想いに対する答えを持てない状態なのです」
「え……それはどういうことですか?」
解説が難しくて、よくわからなかった。
目を瞬かせたセナに微笑みかけたファルゼフは、耳元に唇を近づける。
他の誰にも聞こえないように、彼はそっと囁いた。
「わたくしとの秘密を、忘れないでくださいね」
ファルゼフとの秘密……?
それは、なんだったろう。
首を傾げていると、馬車の外が俄に騒がしくなってきた。
馬で駆けてきた副団長のバハラームが、ハリルに報告する。
「大変です、ハリル様! 国境を偵察に向かわせた騎士の数名が、傷を負って帰ってきました。いずれも軽傷ですが、ベルーシャ軍から攻撃を受けたとのことです」
「なんだと? ベルーシャ国には儀式を行う旨が通達されているはずだぞ。おい、ファルゼフ。どういうことだ!」
不測の事態が起こったらしい。
ハリルに詰問されたファルゼフは馬車の窓から顔を覗かせ、首を振る。
「儀式の通達は行っております。使者は確かにベルーシャ国に信書を届けました。先方からは了承したという旨の返答が、アポロニオス王の名で頂戴しております。その事実は、陛下と大神官殿と共に確認いたしました」
ベルーシャ国は儀式のために騎士団が国境付近を訪れることを周知しているのだ。
ということは、攻撃した兵士の思い違いだろうか。
セナは馬車から顔を出して、バハラームに問いかけた。
「副団長さん! 怪我をした騎士の方は大丈夫なんですか?」
「ご心配ありません、贄さま! 我らは殺しても死にませんからな!」
洒落にならない冗談に、セナは微苦笑を零す。
どうやら怪我の程度は軽いようだ。
ハリルは手を掲げて、随行する騎士団員たちに指示を出す。
「三部隊に分かれろ! 先発は国境付近まで様子を見に行け。攻撃の気配を察知したらすぐに退くんだ。主な者は俺と共に馬車の前方で備えろ。後方は馬車の護衛だ」
馬で駆けていた騎士団員たちはハリルの指示により、波が割れるかのように分かれていった。彼らが常日頃から、訓練を受けていることを窺わせる。
バハラームは数名の騎士と共に前へ躍り出た。
「私が先発隊の指揮を執ります! なあに、すぐに問題なしと報告いたしますよ。ゆるりとリガラ城砦へお越しください」
「任せたぞ。……シャンドラ、おまえも行け」
先発隊の面子を確認したハリルは、後方にいたシャンドラに命じた。
重量級の槍騎士ばかりなので、身軽な者が必要と判断したようだ。
黒衣のシャンドラは無言で、ちらりと馬車の中に目を向ける。
ファルゼフは顎を引くふりをして頷きを返した。
「御意」
兄の指示を確認したシャンドラは馬腹を蹴り、一気に前へ躍り出る。
シャンドラを含めたバハラームの先発隊は砂埃を上げて、瞬く間に見えなくなった。
セナの胸に、なにやら不穏なものが過ぎる。
シャンドラは儀式には参加してくれるものの、ハリルたちを信用してくれているわけではないらしい。彼は兄であるファルゼフの指示しか受けないのだと、今のやり取りで察した。
所属を考えれば当然かもしれないが、それで先発隊との連携は取れるのだろうか。
ベルーシャ国が攻撃を仕掛けてきたことも気になる。
不安で表情を曇らせるセナを、ファルゼフは優しく諭した。
「心配には及びません。きっと何かの誤解でしょう。もうすぐリガラ城砦が見えてまいりますよ」
「ええ……そうですね」
やがて丘に到達した馬車は、現場の確認のため一旦足を止める。
窓から外の景色をそっと覗けば、荒涼とした大地の向こうに堅牢な城砦がそびえ立っていた。
「あれが、リガラ城砦……」
辺りには街などはなく、いくつかの丘が隆起している寂しい土地だ。城砦の遙か遠くに、高い山の稜線が連なっている。国境の向こうは山岳地帯のようだ。おそらく、あの山が金鉱山なのだろう。
巨人王に奪われた金の山……という吟遊詩人の歌を思い出す。
現在はリガラ城砦付近が国境のはずだが、ベルーシャ軍らしき人影はどこにも見えなかった。先発隊が、豆粒のように小さく見えている。そのあとの中隊は馬車の少し前方にいた。
ファルゼフと共に景色を見渡したセナは、ひとまず安堵する。
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