第11話

翌日から、セナの環境は一変した。

淫紋を宿したセナは花の浮かぶ広大な湯船に入れられて、召使いたちに丁重に体を洗われた。湯上がりには体中に香りの良い香油を塗り込まれ、髪を乾かしてもらう。肌触りの良いガウンに包まれて豪奢な椅子に身を横たえれば、召使いが紅茶や菓子を運んでくる。大理石で造られたテーブルや、菓子が盛られたクリスタルの器は繊細な彫刻が施されており、口にする紅茶や菓子も最高級品と思われる美味しいものだ。

驚いてばかりだったが、部屋に連れられてまた眸を見開く。

そこはイルハーム神が祀られる神殿の一角で、広い居室には豪奢な天蓋付きの寝台が置かれていた。大理石の床には高名な産地の絨毯が敷かれている。黄金で作成された燭台に、黄金の脚が付いた椅子。隣の小部屋には重厚な箪笥が鎮座していて、棚には幾つもの上等な靴が陳列されていた。まるで王の部屋のようである。

目眩を起こしているセナに、召使いは慇懃に告げる。

「王が夕食を共にしてほしいとのことです。時刻が参りましたらお迎えに上がりますので、それまでお部屋でゆるりとお過ごしくださいませ」

なんと命令ではなく、王からのお願いである。しかも召使いの態度はどう考えても目上の者に対するものだ。

唖然とするセナは曖昧に頷くことしかできない。

こんな風に丁重に扱われることは初めてなので、どうしていいのか戸惑ってしまう。食堂で働いていたときは主人に叱られてばかりだった。寝床や風呂もとても清潔とはいえないところで、着る服も薄汚れていた。

この待遇は神官ではなく、かといって召使いでもあるわけがない。

セナは神の贄として扱われているのだ。

「贄って……何をするのかな」

独り言を呟いたセナはそっと下腹に手を這わせた。

淫紋は沈黙している。痛むわけでもなく、これまでと変わらない単なる模様のように思える。

この淫紋があるセナはイルハーム神に捧げられる生贄ということだ。

ラシードは始めからセナの下腹の紋様を見て、贄の要素があると気づき買い上げたのだ。

神の右手に刻まれた紋様と見比べてみようと思い、セナは部屋を出た。イルハームの神像は神殿内に鎮座しているはず。長い回廊を渡り、石造りの神殿をひとり歩いた。

静謐に沈んでいる白亜の神殿はモザイク模様が施された石柱が整然と並び、高い天井を支えている。四方のアーチに垂らされた白布は見事なドレープを描いて高潔な美しさを保っていた。

カーテンの役割を担っている白布を掻き分けてアーチをくぐれば、一際広い部屋に出る。祈りのために使用するのであろう広間の正面には、堂々とそびえるイルハーム神の石像があった。

セナはゆっくりと神像に近づいた。身の丈は丘の上のものと同じくらいで、屋内に置く神像としてはとてつもなく巨大だ。両腕を交差させた神の右手の甲には、淫紋と呼ばれる模様が刻まれている。

イルハームの司る快楽は、神の力の源であるといわれている。この徴にイルハームは快楽を蓄えて、人間に恵みを与えてくれるのだとセナも聞いたことがあった。快楽とは怠惰に耽るという意味ではなく、性交による悦びを指している。そのため性交を行うことは神を讃えるという意味合いもあるので広く推奨されていた。

そっとガウンを捲り、己の下腹の紋様と見比べてみる。

今まであった小さな模様は中心にある。そこから蔓のように伸びた曲線がいくつも重なり、左右対称に描かれていた。イルハームの手の甲とセナの下腹は、寸分違わぬ紋様だった。複雑な柄なので、偶然同じものだとは思えない。

自分は本当に神の贄となったのだ。

けれど誇らしさよりも怖れや不安のほうが胸の裡を占める。

贄というからには、この身を捧げなければならないのだろうか。

「殺される……のかな」

ぽつりと呟けば、ふと神殿の中心に奇妙な棺が置かれているのが目に入る。

青と金色に彩られた華麗なモザイクタイルの中心に据えられたそれは、よく見れば大理石で造られた台座のようだ。蓋がないので棺ではない。供物を供えるにしては大きく、人ひとりが充分に寝そべられるくらいである。

もしかして、ここに生贄を寝かせて心臓を取り出すのだろうか。そのような供物を捧げる国もあると聞き及んでいる。

背筋を震わせながら、もう一度イルハームの神像を見上げる。恐怖に身が竦んだセナは足早に神の前から立ち去った。



ラシードに招待された夕食は、まるで貴賓を招いた晩餐会のように豪華絢爛だった。

食卓に着いているのはラシードとセナのふたりきりなのに、テーブルには数々の料理が並べられている。一匹丸ごとの鶏を焼いたものや、まるで塔のように積み上げられた様々なパン。濃厚なスープは繊細な模様に縁取られた皿で給仕され、焼き菓子は宝石のごとく彩られていた。清潔な装いの召使いが上品に料理を提供してくれて、さらに夕食の席を優雅なものにしている。

豪勢な料理はセナが味わったことのないもので、贄のことがなければさぞ心を躍らせるはずだったに違いない。

セナは上座に座るラシードの斜向かいの席で、俯きながら銀のスプーンを往復させていた。料理人が作ってくれたハリラスープは沢山の野菜と豆が煮込まれて栄養が豊富なのに、無味に喉を流れていく。これが最後の食事かもしれないので味わって食べなければならないと思うのだが、喉や内臓はまるで引き絞られるようだった。

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