第69話
ハリルは片眉を跳ね上げた。
暗殺術を使います、とは明言しないということらしいが、なんだか得体の知れない男だ。 セナは、暗殺術がどんなものなのかすら知らなかった。
王子たちも戸惑ったようにハリルを見上げている。
「まあ、いいだろう。戦い方を見ればすべてわかる。バハラームと対戦してみろ」
その言葉に、すいと立ち上がったシャンドラは踵を返した。音もなくバハラームの待機する闘技場へ向かっていく。その様子を目にした審判は驚きの声を上げた。
「なんと無礼な。ハリル様に返事もしないとは。不敬罪ですぞ」
「いちいち罪に問わなくていい。本当に強いやつは余計なことを喋らないもんだ」
手を振ったハリルは、早く試合を開始するよう審判を促した。
シャンドラの不遜な態度は強さゆえらしいが、彼は剣も槍も手にしていない。手ぶらで試合の場に立ってしまった。一体どうやって戦うつもりなのだろう。
「あの人はそんなに強いんですか? 武器を持っていないようですけど……」
「帯刀してるぞ。腰布の内側に四本仕込んでる」
「えっ?」
目を瞬かせてシャンドラを見ると、彼はいつのまにか細い短剣を手にしていた。
腰のベルトから下りている短い腰布は硬い素材のようだが、黒の衣装に紛れて見にくい。ハリルの指摘どおり、どうやらあの腰布が武器を携帯する入れ物のようだ。
「ハリルさま、バハラームは負けないよね?」
アルの問いかけに、ハリルは小首を傾げる。
「どうだろうな。あれはかなりの使い手だぞ」
「どうしてわかるの? まだ始まってないよ」
バハラームは槍を構える。長身の彼よりもさらに長い槍は、敵が間合いに踏み込むことを許さない。それを彼は木の棒であるかのように、軽々と扱っている。腕力のない者なら、槍を持ち上げることすらできないだろう。
「暗殺術など、恐るるに足らん。かかってこい。相手をしてやろう」
悠々と構えているバハラームはすでに数名の対戦相手を倒している。
黙然としたシャンドラはまるで戦う意思がないかのように、ナイフを手にした腕をだらりと下げていた。彼が手にしているのは、ナイフよりは少々大きいといった程度の短剣だ。あのサイズで対象まで届かせるには、かなり接近する必要がある。バハラームに近づこうと踏み込んだ途端に、槍で突かれてしまうだろう。
武器のリーチに差がありすぎるので、勝負にはならないと思えた。やる気のなさそうなシャンドラが副団長に勝てるわけがないと見越した騎士団員たちは、余裕の笑みを浮かべて眺めている。
ハリルはひとこと放った。
「歩き方でわかる」
審判が開始の合図を告げた。
瞬間、黒い影が一閃する。
「うっ」
短く声を上げたバハラームは素早い反応を見せた。
咄嗟に槍を掲げ、青銅の柄で防御する。
ギン、と金属音が響いた。
両者が離れて間合いを取ったとき、ようやく見学していた者たちは目を瞬かせた。
シャンドラが瞬足で踏み込み、バハラームに斬りつけたのだ。
先程のやる気のなさそうだった姿勢からは一変して、シャンドラは非常に低い体勢で短剣を構えている。まるで飛びかかる直前の猫のようだ。炯々とした瞳で射殺すかのように、バハラームの挙動を凝視している。
「俺の初撃を完全に防いだのは、貴様が初めてだ」
「むむ……なんという速さ。やはり腕を下げていたのは油断させるためだったか」
俄に闘技場には緊張した空気が満ちた。
ごくりと息を呑んだ騎士団員たちは、試合の成り行きを見守っている。
アルとイスカもお喋りをやめて、食い入るように見つめていた。
じりじりと、闘技場のふたりは摺り足で間合いを計っている。
シャンドラは槍の切っ先から逸れるように横に移動したが、鋭い先端は常にシャンドラに向けられた。
互いに相手の次の出方を窺っている。
その状態は長く続けられた。
槍の先端は、少し伸ばせばすぐにシャンドラに届くほどの距離だ。
しかし、攻撃を仕掛けて躱されれば、隙が生じる。
誰もが言葉を発せず、身じろぎもできない。
破裂しそうな緊迫感の中、ふいにイスカが口を開いた。
「ねえ、ちょっと突けば届く……」
その瞬間、均衡が崩れた。
鋭い槍の一撃が繰り出される。
姿勢の低いシャンドラを槍でひと突きするのは容易に思われた。
だが槍が突いた先には残像だけが残される。
高く跳躍したシャンドラは太陽を背にして、短剣を振り上げた。
しかし豪腕により、すぐさまバハラームは槍を引き戻す。
「うぐっ」
ばらりと砂が撒き散らされる。
左手に砂を手にしていたシャンドラが、目潰しを食らわせたのだ。
それでもバハラームは目を閉じない。
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