第56話

 庭園での閨事から数日後……セナは緊張の面持ちで、執務室に設置された椅子に腰かけていた。

 以前は壁際に歴代の宰相の肖像画がかけられていたというが、前任のマルドゥクの件もあったためか、ファルゼフは肖像画をすべて撤去したそうだ。それはセナを宰相の執務室に案内してくれた側近が教えてくれた。

 現在の宰相が使用する執務室には、重厚な執務机と椅子、それに数人で話し合いを行うための長椅子とテーブルが鎮座しているだけだ。大きな窓からは明るい陽射しが降り注いでいる。窓の外は庭園を一望できる風景が広がっていた。

 トルキア国において、王の次に政治的権力を持つ宰相が執務を行うのに相応しい部屋の眺望である。

 セナは本日、ファルゼフに執務室を訪れるよう告げられた。

 宰相の執務室を指定されるなんて、初めてのことだ。それどころか、ファルゼフとふたりきりで会話するのも初めてなのである。緊張は拭えない。

 おそらくは、王子たちの特別講義を行ったことで、何かお小言があるのではないだろうか。 緊張するセナに付き添っている側近は、和ませようとしてくれるのか、先程から会話を繰り広げている。ファルゼフは会議が長引いているとのことで、まだやってきていない。

「ファルゼフ宰相は大変堅実な方でございます。歴代の宰相の中には、この部屋を黄金で埋め尽くした者もいましたが、そのようなものは必要ないと仰られました。それに身分の低い私を側近に採用してくださったのです。これまでは身分と役職は比例しておりましたから、大変驚きましたが、過去の功績を考慮してくださったとかで……私はとても感激いたしました」

「ええ、ええ……」

 熱く語る側近は、ファルゼフに尊敬の念を抱いているようだ。

 セナはファルゼフから何を言われるのか気が気ではなく、側近の話を上の空で聞いていた。 そのとき、執務室の重厚な扉が開かれた。

「お待たせいたしました、セナ様。会議が長引いてしまい、申し訳ございません」

 眼鏡の奥の理知的な双眸を煌めかせたファルゼフは、まっすぐにセナの姿を眼に収める。なんだか肉食獣に睨まれているようで、落ち着かない。彼は確かに堅実で聡明かもしれないが、どこか獰猛さを匂わせている。

 ファルゼフが、すいと掌を翳す。合図を受けた側近は、音もなく室内を出て行った。先程延々と喋っていた賑やかさとは乖離していることが、ふと気になったセナは側近の去って行った扉に目を向ける。

 閉められた扉の向こうで、側近の気配が消えた。どこかへ行ってしまったようだ。室内にはいなくても、宰相の側近なら扉の外で控えているものではないだろうか。

 頭に思い描いたセナの疑問を読んだかのように、ファルゼフは言葉を紡いだ。

「これからお話しするのは内々のことですから、人払いをいたしました。誰もこの執務室には近づかないよう命じておりますから、セナ様は安心して心の裡をお話しください」

 優しげな微笑を浮かべながら、ファルゼフはセナの向かいに腰を下ろした。

 彼の言葉に安堵を抱いたセナは、ほっとして肩の力を緩める。

「はい、わかりました。ファルゼフさま」

「さま、は不要でございます。どうぞ、ファルゼフとお呼びください」

「わかりました。ファルゼフ」

 気さくな人のようで、親しみやすさを覚えたセナは笑顔を見せた。

 だが、ファルゼフは柔和な笑みを収めると、セナに冷徹な瞳を向けた。それを隠すかのように、眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。

「さて。セナ様はわたくしから呼び出された理由に、思い当たることはございますか?」

 ぎくりとしたセナは体を強張らせる。

 ファルゼフがセナと話し合いたいという内容は、王子たちのことしかない。ラシードの前では、王子たちが勉学に不真面目すぎるなどと言いにくいからだろう。

「はい……あの、申し訳ありません。アルとイスカは決して不真面目なわけではないのです。ただ、まだ小さいので、講義が長くなると飽きてしまうのです」

 懸命に話したセナに、ファルゼフは片眉を跳ね上げた。

「セナ様と本日話し合いたい内容は、特別講義での王子様がたの態度のことではありません」

「え……そうなんですか?」

「おふたりは真剣にわたくしの講義を受けてくださいました。もっとも、わたくしは講師を務めるときは教本など見ませんので、生徒から一瞬たりとも目を離しません。わたくしの講義を受講する生徒は皆、瞬きができないようで、講義のあとは大変目が乾いてしまうと一様に言います」

 ファルゼフの講義は、ある意味で厳しそうだ。この冷徹な眼差しで見つめられたら、蛇に睨まれた蛙のごとく、逸らせなくなってしまうのだろう。

「……そうですか。ファルゼフは、どうして教本を見ないのですか?」

「すべて頭に入っているからです。教本には理屈に則ったことしか書いていませんから、それを覚えるのは造作もありません」

 さすが王立大学院を首席で卒業した秀才だ。

 セナは奴隷オメガとして育ったので、まともな教育を受けなかった。王宮に来て儀式を終えてから、教師をつけてもらって基礎の勉学を覚えたくらいだ。

 ファルゼフの語ることは逐一説得力があり、少々話が長い……ので、やはり秀才は頭の作りから異なるということなのだろう。

 セナはふと、首を捻る。

 王子たちのことでないとしたら、ファルゼフが人払いをしてまでセナと話し合いたいこととはなんだろう?

 セナの仕草から心を読んだかのように、ファルゼフは瞳を煌めかせる。

「それではなんの話かというと、セナ様はおわかりになりますか? 王子様がたにも関係のあることでございます」

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