第74話
昨夜からハリルは王宮ではなく、自分の所有する屋敷で寝泊まりすると言っていた。
ラシードは何やら準備が忙しいようで、寝室に戻ってきていない。
「ひとりは、寂しいな……」
いつもふたりから愛されて、最中に口論が始まったりするけれど、その賑やかさがないのは灯火を失ったかのような心許なさを覚えた。
ラシードとハリルはお互いを邪魔だと罵っていたけれど、心からそう思っているわけではないと思う。ただ雄としての独占欲が発揮されてしまうので、時折衝突してしまうのだ。
なんとか仲直りしてほしいのだけれど、どうしたら良いのだろう。
考えあぐねていると、寝室のカーテンを開ける音がした。
「おはようございます。永遠なる神の末裔のつがい様」
溌剌とした声音は、いつも世話をしてくれる召使いの少年だ。
ラシードは寝室に入室できる召使いを厳選しており、数名の少年と老齢の女性しか許可していない。いずれも王族の世話に慣れている身元のしっかりした者たちだ。
しかも天蓋付きのベッドから垂らされたカーテンは主人がいるときには開けてはならない、浴室で主人の体を洗うときは体に触れてはならないなど、非常に細かい規律があるらしい。 ラシードが定めたこの規律における主人とは王だけでなく、もちろんセナも含まれている。 正直に言えば堅苦しいと感じることもあるのだけれど、ラシードは厳しい目をして、セナのためだと言う。
ベッドのカーテンを開けたセナは、寝台から足を下ろした。
自分でカーテンを開けるのは、とても久しぶりだ。
いつもはラシードかハリルに抱き竦められたまま目覚めるので、どちらかがカーテンを開けているから。
召使いの少年は水の入ったグラスを盆にのせて差し出した。
「どうぞ、お水で喉を潤してください」
「ありがとう」
召使いの手から、主人にグラスを手渡しされることは許されていない。
以前、盆を持ってくるのを忘れた少年はグラスを渡せなかったので、持ち場を異動させられてしまった。そこまで規律を守ることもないとセナは思うのだけれど、ラシードは召使いが間違いを起こしたら困ると慎重な姿勢を崩さない。
間違いとはなんだろう……
冷たい水が喉に流れる感触が心地好い。
飲み干したグラスを、少年が持っている盆に戻す。
次に少年は、顔を洗うための銀製のボウルに大きな水差しから水を入れた。
「今夜は王が、特別な舞踏会を開いてくださるそうですよ」
「舞踏会……じゃあ、もしかして昨夜お戻りにならなかったのは、舞踏会の準備をしていたためでしょうか?」
ボウルの水で顔を洗ったセナに、少年は微笑みながら清潔なタオルを差し出した。
「そのようです。王が考案した舞踏会だそうで、会場の宮殿には様々な家具が設置されているようです。舞踏会の参加者も大勢集まっていて、王と直々に面接のようなものを行っていましたね」
通常の舞踏会とは異なるようだ。一体、何が行われるのだろう。セナには想像もつかない。 ラシードとハリルの勝負はもう始まっている。
今日から一週間、ラシードはセナを独占して、淫紋を動かすための趣向を凝らすというのだ。きっと今夜の舞踏会も、その一環なのではないだろうか。
ラシードが懸命に準備してくれているのだから、喜んで舞踏会に参加させてもらおう。
けれどその前に、ラシードの顔を見て、安心したかった。
たった一晩触れられていないだけなのに、こんなにも心と体は飢えている。
セナはそわそわしながら着替えを手伝ってもらい、純白のローブに袖を通した。
朝食のあと、ラシードの待つという宮殿へ案内される。
今宵、舞踏会が開催される宮殿では、大勢の召使いたちが忙しそうに立ち回っていた。屈強な男たちが大きな椅子のような家具を搬入している。布を被せているのでどのような椅子なのか定かではないが、王の腰かける椅子だろうか。セナは廊下から、ちらりとその様子を目にした。
「こちらのお部屋で、王がお待ちでございます」
召使いの手により、重厚な扉が開かれる。
その途端、目に飛び込んだ眩さに、セナは思わず瞼を閉じた。
「セナ、待ち侘びたぞ」
ラシードの弾んだ声音に、おそるおそる目を開ける。
きらきらと煌めく黄金の輝きに、セナは唖然とした。
黄金で作成された精巧な首飾りや腕輪、耳飾りなどの装身具が、いずれも天鵞絨張りの台座に飾られている。それらは部屋を埋め尽くすほど並べられていた。
扉まで足を運んだラシードが、呆気に取られているセナの手を掬い上げる。
「ラシードさま……これは?」
「今宵の舞踏会で、セナが身につけるための装身具だ。どれにすればよいか迷っている。すべてを付けてもよいのだぞ」
手を繋いで腰を抱かれながら、整然と並べられた装身具を順に眺める。
どの装身具にも精緻な細工が施されており、金剛石や紅玉などの宝石が付いている。とてつもなく高価な代物ばかりだ。
「僕には、このような高価な品は必要ありません。ラシードさまのお側にいられれば充分なのです」
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