第3話
長い一日が終わり、ふらつく足取りで宿舎へ戻る。道すがらにある酒場からは物哀しい音楽が流れてくる。その旋律を疲弊した体で聞き流しながら、宿舎の軋む階段を上った。
今日は朝に遅刻したので、店主に食事を抜かれてしまった。水分しか摂取していないため空腹は限界だ。
「おなか空いたな……」
いや、食べた。
客から食べろと命令された残飯の野菜。
あれが本日唯一の食事だった。
惨めで哀しくなってしまうけれど、図らずもあの人が食べ物を与えてくれたことに感謝する。これもイルハーム神の思し召しかもしれない。
宿舎は多数の奴隷が共有して寝泊まりしている。いずれも近隣の店で働いているオメガたちだ。古くて狭い部屋に、数十人がひしめき合っていた。仕事が終われば帰って寝るだけの宿舎だが、今夜は異様な興奮に包まれていた。
「いよいよ明日だな。奴隷市場」
「ああ。俺は発情期が来てるから、金持ちのアルファを誘惑して買ってもらうよ」
嬉しそうに話すオメガたちの会話を耳にして、セナは陰鬱な気持ちになった。
奴隷市場。
それはオメガ街で月に一度だけ開催される、オメガを売買するための取引を指す。
今は店舗の主人たちの元で働いているオメガたちだが、奴隷市場で新たな主人に買ってもらえれば、この街を出ていけるのだ。噂によると、アルファと運命のつがいになることができれば互いに離れられなくなり、生涯愛されるのだという。彼らはそれに期待している。
けれど、運命のつがいになるということは夜の相手をさせられた上でということだ。愛玩具として飼われるのと、どう違うのかセナには分からない。運命とは何か、愛されるとはどういうことなのか、見たことも経験したこともないので現実感が湧かない。
セナは布団代わりにしている襤褸布を出して、廊下の端に向かった。部屋は就寝しているオメガでいっぱいなので寝る場所がない。いつものように硬い板に痩せた体を横たえて、襤褸布を被る。
未来に希望を持って楽しみにしている者もいるが、セナは月に一度の奴隷市場が何より嫌だった。
そっと下腹に手を遣る。
この紋のせいで、自分は両親に見放されたのだろうか。
おそらく生まれたときからある下腹の紋様は、両親を捜すための大事な印だった。
瞼を閉じれば思い出す。
赤子だったセナを抱く、優しい手。穏やかな笑顔。翡翠色の眸はセナと同じものだ。あの人は、セナの母だ。
母の隣には、赤子のセナをあやす少年がいる。
あれは、兄さま……?
つう、と眦から一筋の涙が零れる。翡翠色の眸は切なさに濡れた。
――会いたい。
けれどセナを見放したということは、母も兄も会いたくないのかもしれない。でも一目だけでもいい。離ればなれになったのは、何か事情があるのだと思いたかった。
いつか、母と兄に会いに行きたい。
その望みを胸に秘めて、セナは意識を沈ませた。
月に一度開催される奴隷市場は、オメガ街の中心部にある広場で催される。まだ日の昇らない早朝から、セナたちオメガは奴隷商人に連れられて砂埃の舞う広場へやってきた。
普段から簡素な衣服を纏う体は全裸にされ、首と腕は奴隷の象徴であるベルトからつながる鎖に引かれている。
これだけに留まらず、オメガたちは客から吟味してもらえるように最高の形で提示されるのだ。
セナは広場に設置された舞台上の装置を目にしないよう、俯いた。
奴隷市場が嫌いな理由は、この舞台装置だった。
長い木枠に金具が付けられたそれは、体を不自然な体勢に固定するものだ。壇上に上がり、横一列に並ばされたオメガたちは、鎖を引かれて木枠の前に腰を下ろす。背中を付けて寝るような姿勢になり、足だけを掲げて膝を曲げる。奴隷商人が一足ずつ、足首に金具をかけていった。
既に広場に集まっていた客たちから、卑下た野次や口笛が飛ぶ。
両足を掲げて広げる格好にされると、客のほうからは花芯も後孔も丸見えになる。こうすれば商品を分かりやすく検分できるというわけだ。
広場に陳列された数十人のオメガたちの、何列にも渡る木枠に嵌められた下半身に朝陽が射す。それはきっと壮観な景色なのだろう。客の間から湧いた歓声に、セナは恥ずかしくて消えてしまいたくなる。
「さあ、旦那方。お好きなオメガをお試しになってください」
用意が整うと、奴隷商人が愛想良く客に誘いかける。
客は見るだけでなく、商品を味見できるのだ。
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