第2話

ふいに客のひとりから呼び止められて振り向く。上級のアルファのようで、装飾の入ったマントを纏っていた。アルファには上級から下級と細かい位が存在して、それは王侯貴族の序列に準拠しているという。オメガはすべて奴隷で一括りにされているので、セナにとっては雲の上の話だ。

アルファの客は既に食事を終えたらしく、テーブルにはわずかな食べ残しの乗った皿が置かれていた。

「はい、御用でしょうか。お客様」

薄茶の眸に冷酷な光を宿した男は何の前触れもなく、皿を傾けて残飯を床に落とした。野菜の欠片がぼとりと板敷きの床に落下する。

稀に料理がまずいと憤慨して皿ごと放り投げる客がいるが、どうして食べ終えたあとにこんなことをするのだろうか。野菜が美味しくなかったのだろうか。セナは下拵えも手伝っているが、すべての食材は新鮮なものをきちんと洗って処理している。

「あの……?」

訳が分からず瞬いていると、男は無表情で顎をしゃくった。赤銅色の髪は硬そうで、日に焼けた精悍な面立ちには不遜が色濃く滲んでいる。

「食え」

「……え?」

「腹が減ってるだろう。食わせてやる」

残飯は床に落ちてしまっている。それを食べろというのだ。

セナは元々華奢な体つきをしている上に、日々の過酷な労働でとても痩せている。食事は与えられているが、一日にパン一切れとスープが少しだけだ。いつもお腹は空かせているけれど、さすがに床に落ちた残飯を食べる気にはならない。それに、今は仕事中なのだ。お客様がお金を出して食べたものを、給仕係がいただくわけにはいかない。

「できません。僕は給仕係ですから、お客様に注文していただいたお料理を口にするわけにはいかないんです」

「客が良いと言ってるんだ。犬のように這いつくばって食べろ」

命令慣れしているらしい男は傲然と言い放つ。

セナが戸惑っていると、男と同席していたやや年長の男が身を乗り出した。

「この御方は王族のアルファなのだぞ。騎士団長のハリル様であらせられる。奴隷が口答えするなぞ恐れ多い。さっさと命令に従え!」

王族という高位のアルファに相対するのは初めてだが、客の言うことに逆らえば暴力を振るわれることもある。観念したセナは床に這いつくばり、冷えた野菜の欠片を口にした。

丹念に洗って皮を剥いた野菜だ。それを捨ててしまうなんて勿体ない。

セナは胸の裡に湧いた屈辱を見ないふりをして、落とされた野菜を食べて床を舐めた。

ハリルという男は従順なセナに満足したのか、グラスを傾けながら雑談に興じている。

「イルハーム神の贄はまだ決まらないようだな。王はいったい何をしているんだ」

不満げに呟かれた台詞に、配下らしき年長の男は揉み手で答える。

「じきに決まりましょう。儀式が楽しみですな。ハリル様が神の子を孕ませることになれば、一族の栄華が約束されます」

セナには何の話か全く分からないが、彼らはイルハーム神の贄とやらを選んでいるらしい。

オメガ街で暮らすセナには無縁のことだ。すべての野菜を舐め尽くしたセナは体を小さくしながら立ち上がる。不遜な男は艶めいた眸をむけてきた。

「現れない贄など当てになるものか。俺はこいつでもいいな」

目を合わせないよう俯いて、セナは足早に厨房へ逃げ込んだ。

オメガは見目麗しい者が多い。セナ自身もやつれてはいるが、黒髪と対照的な白い肌に、大きな翡翠色の眸が人目を惹く。小柄で華奢な体格は男なのに雄の匂いを感じさせず、どこか神秘的な雰囲気を漂わせていた。

見目が良いのでお客から相手をしろと命じられることもあるが、娼館ではないのでそういったサービスは行っていない。断ればまた不興を買ってしまうので、いつも厨房へ逃げている。

皿の積み上げられた厨房に入ると、同僚のオメガがきつく睨みつけてきた。

「おい、セナ! 何やってんだよ。皿が溜まったじゃないか」

昼食の時刻が過ぎると、テーブルから下げてきた汚れた皿が溢れるほど流し台に溜まる。給仕をしながら皿も洗わなければならないので、忙しいと手が回らなくなる。

「ごめんなさい。今、洗います」

「全部やっておけよ」

彼は仕事をやりたくないようで、いつもセナに押しつけてどこかへ行ってしまう。けれど厨房を出ようとしたところで店主から「どこへ行く」と咎められていた。必死で皿を洗うセナの耳に、猫撫で声と淫靡な水音が届く。やがて「しょうがないな」と呟いた店主は嘆息した。

彼は体を使って、店主に融通を利かせているのだった。店が暇なときなどは裏口で立ったままセックスしている姿を見かけることもある。ごみ出しに行こうとしたセナは慌てて見ないふりをした。

そうやって上手く立ち回るのが賢いやり方なのかもしれないが、セナにはとても真似できない。

誰にも言えないけれど、この身は好きな人に捧げたいという願いがあるから。

オメガはベータやアルファに飼われて、下働きの奴隷や愛玩具となるのが運命だ。

だから、心の隅でそっと思っているだけ。

ホールから怒号が飛んできた。お客様が呼んでいる。

セナは慌てて皿を置くと、客席へ駆けていった。

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