第42話
力の入らない体を勇気で奮い立たせ、両足に力を込める。
兵士がセナの体に手を伸ばそうとしたとき、地下牢の入口から声がかけられた。
「おい、何をしている。マルドゥク様のご命令だ。贄を牢から出すんだ」
鎧に身を包んだ別の兵士がやってきた。邪魔をされた兵士は舌打ちをして手を引く。
どうやら処刑のときがやってきたようだ。
セナは気丈に背を伸ばして、裸身のまま牢を出た。身につけているのは手錠のみ。
せめてイルハーム神に恥じぬよう、真紅の淫紋を堂々と晒そう。
神の贄としての誇りを最後まで、失わないために。
鎧の兵士に鎖を引かれて階段を上る。辺りは物々しい空気に満ちていた。
城塞の中は大勢の人の気配がある。低い話し声、慌ただしい靴音、武器の擦れる金属音。それらが殺気と興奮に包まれて、さざ波のように押し寄せていた。
広間には滔々と演説する男の声が流れていた。壇上に立って弁舌を振るうのはマルドゥクだ。
彼の一族と思しき男たちが武器を手にして広間に集まり、一心にマルドゥクの熱弁を聴いていた。
「今こそ、我が一族の栄光を取り戻すときが来た。簒奪王は詐欺師であり、略奪者だ。奴の子孫を根絶やしにして、我らの国を復活させるのだ」
賛同の声が次々に上がる。男たちは一様に狂気に彩られた眸をしていた。マルドゥクの思想に支配され、彼に従うことが正義なのだと信じて疑わない盲信さが窺える。
広間の一角には、イルハームの神像が並べられていた。各地に祀られているものを集めてきたらしい。神の石像は神官が祈りを捧げながら彫刻師が造り上げる。街に祀られている巨大なものもあれば、家屋の祭壇に置ける小さなものもあり、誰でも国に申請すれば所有することができる。
すべてのイルハーム神の右手には、真紅の淫紋が刻まれている。マルドゥクは背丈を遙かに超える巨大な像の前に立った。
手にしていた金属の棒を振り上げたマルドゥクは、神像に一撃を叩き込む。
無残な破壊音が広間に轟いた。イルハーム神の右手は亀裂が生じる。幾度も像は叩きつけられて、ついに淫紋ごと神の右手は崩れ落ちる。
「ひどい……」
なんということを。
これまで水に困らず他国にも攻め入られず、平和に暮らしてこられたのはイルハーム神の加護のおかげだ。その恩を忘れて神を穢すなんて、罰が下る。
マルドゥクは同志にむけて声高に訴えた。
「この邪神が簒奪王の背中を押した。我らを虐げた。国を奪った。邪神の子らを殺して、首を晒すのだ!」
雄叫びが広間に轟く。柱の傍で震えていたセナに目を付けたマルドゥクは、神を穢した棒で指し示した。皆の視線が棒の先にあるセナの淫紋に注がれる。
「そやつは簒奪王の血を受け継ぐ淫紋の一族。淫紋を切り裂き、孕んだ子を引きずり出せ。
淫紋の一族は滅亡する運命なのだ」
鎧の兵士に引き摺られて壇上へ上がる。人々の憎しみと殺気に満ちた波を裸身に浴びた。マルドゥクの一族にとっては、淫紋こそが憎悪の対象なのだ。殺せ、殺せと合唱が木霊する。セナの唇は恐怖に戦慄き、足は竦んだ。
兵士にきつく肩を押さえられているので、逃げることが叶わない。
鞘から引き抜いたダガーを高く掲げたマルドゥクが、空いた方の手でセナの顎を捉える。無理やりに上向かせられると体が吊られてしまい、淫紋のすべてが人々の目に晒された。
短剣の切っ先が真紅の淫紋に、ぴたりと宛がわれる。
死を覚悟したセナは震える声音を絞り出した。
「僕が死んでも、イルハーム神は貴方の行いを見ています。平和を乱す貴方を、イルハームさまは決してお許しにならないでしょう」
「……命乞いでもするかと思えば生意気な。腹の子共々死ね!」
叫んだマルドゥクは腕に力を込めた。
淫紋が白刃に散らされるのを、誰もが眸を見開いて見入る。
衝撃に襲われる刹那、一閃が走った。
跳ね飛ばされたダガーが宙高く舞う。
手首を押さえたマルドゥクの目が血走る。
「何をする、貴様!」
セナの体は、押さえつけていたはずの兵士により庇われていた。
彼の右腕には剣が掲げられている。この兵士が助けてくれたのだ。
「悪人を成敗して、俺の嫁と子を取り返しにきたのさ」
その声は、まさか。
聞き覚えのある声音だと思ったが、不遜な物言いに確信した。
兵士は顔を覆い隠していた兜を取り去る。
赤銅色の髪に、垂れた薄茶の眸。精悍なハリルの面差しは不敵な笑みを湛えていた。
「ハリルさま!」
「迎えに来たぞ、セナ」
助けに来てくれた。嬉しさに、眦から涙が零れ落ちる。
トルキア国の騎士団長が現れたことに、広間には動揺が伝わる。マルドゥクは歯噛みしながら腰に佩いた長剣を抜いた。兵士の扮装をして紛れ込んでいたハリルを剣先で指す。
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