第88話
「ぷはっ」
セナは水面に顔を出して、大きく息を吸い込んだ。
広いプールの水面は陽の光を反射し、きらきらと輝いている。
辺りは深い緑で囲まれており、人の気配がしない。プールの傍にはガゼボと、こぢんまりとした神殿のようなヴィラが建てられていた。
ここは、ハリルの別荘だという。
淫靡な後戯を施したあと、シャンドラはきっちりセナの髪に付いた泡を洗い流してから、ローブを着せて支度を調え、医師と神官を呼んだ。
初めから、一週間を終えたら医師と神官に淫紋の動きや体調を診てもらうことになっていたからだ。重要な会議があったというラシードも診察に立ち会ってくれたが、セナは恥ずかしいやらいたたまれないやらで、顔を上げることができなかった。
セナを休ませたあと、ラシードがシャンドラや医師たちから隣室で報告を受ける声が微かに聞こえたが、あまりにも体が疲弊していたのですぐに意識を手放してしまった。
たっぷり一晩の睡眠を取ったセナは、目が覚めるとすぐさまハリルに抱き上げられて馬車に乗せられ、この別荘へ連れ去られたのだ。
今日からは、ハリルとの一週間が始まる。
王宮からそう遠くない地区にあるけれど、セナは別荘には初めてやってきたので、物珍しくて辺りを見回す。緑に覆い隠されているためか、ここからは他の建物は見当たらない。召使いの姿もないので、とても静かな空間だ。
「ひゃあっ!?」
そのとき、プールの中で足を撫で上げられた。
慌てて足を引くと、目の前の水面がざばりと波打つ。
「ハリルさま! 驚きました」
濡れた髪を掻き上げたハリルは、にやりと口端に笑みを刻んだ。日に焼けた逞しい裸身が、太陽の下で輝きを放つ。ハリルの鍛え上げられた強靱な肉体はいつ見ても眩しい。セナは彼の下腹にある中心を直視しないよう、そっと目を逸らした。
ふたりとも全裸だ。
他国ではプールに入るときのための水着なる服があると聞いたが、そうしたら水着が濡れてしまうのではないかと、セナは首を傾げたものである。
「これから一週間、セナを独占できるんだ。片時も離さないからな。たっぷり俺の精を飲ませて、孕ませてやる」
ぎゅっとセナに抱きついてくるハリルは、まるで子どものような無邪気さを見せる。みんなが敬う最強の騎士団長は、セナとふたりきりのときは甘えてきたりする。それなのに抱くときは強引な面もあるので、そのギャップに戸惑ってしまうのだ。
でも、そんなハリルのことも、もちろん大好きなのだけれど。
抱き竦められたセナは笑いながら、ハリルの背に腕を回した。指先に触れた彼の強靱な筋肉に、愛しさが込み上げる。
「ハリルさまったら。お仕事はどうするんですか?」
「当然休むに決まってるだろ。そのためにラシードが舞踏会なんぞ開いてた一週間のうちに、仕事を全部片付けたんだからな」
淫蕩な舞踏会のことが脳裏を過ぎり、セナの頬が朱に染まる。
ハリルの耳にも、舞踏会でどのようなことが行われていたか報告は入っているだろう。
「そ、そうですか」
「ラシードと違って、俺は他の男を使ったりしないからな。おまえを抱くのは俺だけだ」
かぁっと耳まで真っ赤になってしまう。
様々なアルファたちから淫靡な愛撫を施され、最後にはシャンドラに後戯と称して抱かれてしまったことが、今さら恥ずかしくてたまらなくなった。
「あ、あの、あれはですね……ラシードさまが淫紋を動かすという目的を達成させるために、お忙しい時間を縫って色々と考えてくださったんです。僕はラシードさまのなさることなら、なんでも喜んで受け入れ……」
言い終わらないうちに、ハリルはじっとりとした半眼を間近から浴びせてきた。
懸命に己の想いを述べただけなのだけれど、なにやら彼の気に障ってしまったらしい……
「ラシードの擁護か。ふたりきりなのに、他の男を持ち上げられると傷つくもんだ。槍で突かれるよりひどい痛みだな」
「……そんなつもりではなかったんですけど……すみません……」
ふっと笑みを浮かべたハリルは、抱きしめていたセナの腰をいっそう引き寄せて、額にくちづけをひとつ落とす。
「そこでな、お籠もりの一週間での、ルールを決めようじゃないか」
「ルールですか……。たとえば、どんな?」
「まあ、食べながら聞けよ」
ハリルが手を掲げると、茂みの間から音もなく召使いが姿を見せた。彼は食事が乗せられた大きな盆を手にしている。
その盆をプールサイドから、すいと水面に滑らせた。
たくさんの皿やグラスが乗っているというのに、不思議なことに盆は沈まない。
「わあ……」
プールに浮かぶ盆を引き寄せたハリルは、マンゴージュースの入ったグラスを手にした。グラスの縁に飾られていた赤い花を摘まむと、セナの髪に挿す。
「フライトフローだ。盆の裏に~が付いてるから、水に浮くのさ。プールに入りながら食べる食事も美味いもんだろ?」
セナにグラスを持たせたハリルは、サンドイッチを手にしてかじりつく。紙で作られたストローを啜れば、甘ったるいのに冷たくて美味しいマンゴージュースが喉を流れていった。
「ん……美味しいです」
「ほら。これも食べろ」
食べかけのサンドイッチを口元に寄せられる。グラスを持っているので両手が塞がっているセナは、ぱくりとサンドイッチをかじった。
盆には他にも様々な料理が乗せられているのだけれど、きっとハリルは自分が食べたものをセナに分け与えたいのだ。親鳥が咀嚼してから雛に餌を与えるのと、同じようなものと思われる。
遠慮なくセナは餌付けされるままに、ハリルの手から食べた。
「味わって食べろよ。これが最後の、余裕のある食事かもしれないからな」
「……え? どういうことですか?」
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