第39話
人がひとり入るほどの大きな行李の蓋が開かれる。蔓で編まれているので空気は入る。普段は衣装を入れて運ぶ物らしい。セナは素直に従い、行李に入った。
隙間から見られるのを防ぐために布を渡される。すっかり包まると、贄の衣装も見えなくなる。
「それでは、お静かに。ほんの少しの辛抱ですから」
「分かりました。お願いします」
蓋が閉められる音がする。辺りは薄暗がりに包まれた。途端に不安が胸に渦巻いた。
促されるままマルドゥクに従ってしまったが、本当にこれで良いのだろうか。
今セナがいなくなれば、次期国王も一緒に失踪することになるのだ。それは無責任ではないだろうか。神の贄として、せめて子を産んでから逃げるべきではないか。
けれどマルドゥクの話では、先代の贄は懐妊していないと判断されてすぐに処刑されたという。セナ自身はまだ懐妊したか不明だが、同じ運命を辿れば明日にも処刑されかねないのだ。
殺されるのは怖い。でも、ラシードに務めを果たすと約束したのに、途中で投げ出すなんて良いわけがない。けれど最後に殺されると始めに知っていたら、儀式を遂行できただろうか……。
迷っていると、執務室に人が入ってくる気配がした。マルドゥクの静かな足音とは異なる。どうやら複数名のようだ。
知らない男の声が、そっと窺うように行李にかけられる。
「贄さま。マルドゥク様より命を受けました。運びますので、決して音を立てないでください」
小さく、「はい」と返す。マルドゥクの部下のようだ。
行李が持ち上げられて、運ばれていく振動を感じる。やがて陽の光が隙間から漏れてきた。外へ出たようだ。
俄に騒々しい靴音や話し声が耳に届く。突然、動いていた行李が止まった。
「待て。行李を開けて中を見せろ」
検問の衛士らしい声に、ぎくりと体を強張らせる。王宮の外へ荷を運び出すには検閲があるのだ。
「この品はマルドゥク様の母君への贈り物です。こちらが書類です。主のサインもあります」
部下は書類を渡したらしい。ややあって衛士は了承した。
「失礼した。通ってよい」
「ありがとうございます」
マルドゥクの権限で検閲は逃れられた。この後に及んで迷いはあったが、彼らに迷惑はかけられない。見つかればマルドゥクも部下も罰せられてしまう。セナは息を殺して身を固くしていた。
馬の嘶きが聞こえる。行李は荷台のようなところに乗せられて、それきり動かなくなった。馬車で運ぶようだ。
車輪の振動を感じながら、セナの胸は次第に重くなる。
もう、ラシードとハリルに会えないのだろうか。途端に彼らの面影が懐かしく胸を占める。
自分から逃げてきたくせに会いたいと願うなんて、どうかしている。
けれど、胸を張って処刑台に立つ勇気は持てなくて。
どうしたら良いのか分からない。
迷うセナを置いて、時は確実に刻まれていた。
半日ほどが経過しただろうか。日が暮れたことは行李の中からも分かった。気温が下がり、寒さを覚えたセナはぶるりと体を震わせる。
そのとき馬車が停車した。目的地に到着したようだ。
マルドゥクは安全な場所に逃がしてくれると言っていたが、ここはどこなのだろう。もう行李から出ても良いだろうか。
突然、行李の蓋が無造作に開けられた。
「出ろ」
命令されて、セナは眸を瞬かせる。目の前にはマルドゥクの部下らしき屈強な男たちが立っていた。執務室では慇懃だったのに、彼らの豹変した態度に戸惑いを隠せない。
男たちはセナを無理やり立たせて手錠を嵌めた。まるで罪人のような扱いに、嫌なふうに鼓動が跳ねる。
「なっ、なにをするんです!?」
「黙ってろ。淫売め」
侮蔑の言葉を吐き捨てられて手錠につながれた鎖を引かれ、引き摺られていく。
城塞のような堅牢な建物に入ると、階段を下りて地下へ連れていかれた。
地下には罪人や捕虜を閉じ込めておくための牢屋がずらりと並べられている。見張りの兵士がいて、セナが来たのに気づくと牢を開けた。
乱暴に突き飛ばされて、転がるように牢の床に投げ出される。硬質な金属音が響いて錠前がかけられた。男たちが去ろうとしたのでセナは立ち上がり、格子を掴んで呼び止めた。
「待ってください! どうして牢に入れるんですか? マルドゥクさまは僕を逃がしてくださると仰ってくださいました」
これでは逆に捕らえられているようなものだ。処刑を待つ罪人のようである。マルドゥクの話とはまるで違う。
必死に訴えるセナに、男は無感情に答えた。
「マルドゥク様の指示だ」
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