第101話
大神官は深く頭を下げる。
シャンドラの潔白は証明できたようだが、彼に大怪我を負わせてしまった。そこまでする必要があったのだろうか……
力が抜けたセナは椅子に座り込む。
弟が怪我をしたというのに、ファルゼフは何事もなかったかのように羊皮紙を捲っている。「お目汚しですので、シャンドラは下がらせて手当てをさせましょう。それでは、彼が百人目のアルファと決定いたしました。最後に陛下から、お言葉を賜ります」
居並ぶアルファたちは一斉に平伏した。
ラシードはアルファたちを見渡し、朗々と告げる。
「そなたたちの責務を果たせ。シャンドラだけではない。私を失望させるような行いをすれば、そなたたちの命はない。無事に儀式を遂行し、神の贄を守り通して帰還したそのときには、永劫に渡る名誉と富を授かることであろう」
「ははっ!」
アルファたちの声が唱和する。
こうして神馬の儀は幕を開けたのだった。
謁見を終えると、セナはすぐに医務室へ向かった。シャンドラの容態を確認するためである。
慌ててやってきたのでひとりだが、セナは自分で扉を開けることを躊躇しない。むしろ、なんでも召使いにやってもらうという環境に未だに慣れないくらいだ。
「失礼します……」
医務室の扉を開けた途端、ベッドから飛び降りるシャンドラの姿を目にする。セナが足を踏み入れたときには完璧な体勢で、シャンドラはセナの足元に跪いていた。
「シャンドラ、お願いです。ベッドに寝ていてください」
上衣を脱いで上半身だけ裸になったシャンドラは、左腕に包帯を巻いていた。白の包帯が痛々しさを醸し出している。
すっと立ち上がったシャンドラは、微笑を見せた。
「このくらいの怪我はいつものことなので、平気です」
アルファの中では小柄なシャンドラだけれど、当然のごとくセナのほうが背が低いので見下ろされる格好になる。
なんだかやたらと距離が近く、彼の唇はあと一歩でセナの額にくっついてしまいそうだ。
一度は体を重ねた相手なので、セナのほうが意識しすぎているのかもしれない。
「でも……怪我をしていたら戦いに支障が出ますよね? 僕がラシードさまを止めるべきだったのに、シャンドラを傷つけてしまって申し訳ないです」
商売道具とも言える戦士の腕を自ら傷つけさせるなんて、とても哀しいことだ。それが主君への忠誠を示す証なのだと言われれば、戦いを知らないセナは納得するしかないのだけれど。
シャンドラは意外なことを聞いたというふうに、軽く目を見開いた。
「セナ様は俺の立場で物を考えてくださるんですか……お優しいんですね。あなた様の地位なら、儀式に参加したあとのアルファの男根をすべて切断せよと命じても良いというのに」
今度はセナが目を見開かされる番だった。
そのような恐ろしい事態は考えたこともないし、想像すらしたくない。
「とんでもありません! 僕は誰も傷つけたくないし、誰にも傷ついてほしくないんです。僕が命令できるとしたら、今後決して自分を傷つけてはいけないと、まずはシャンドラに命じます」
ふっとシャンドラが笑ったと思った瞬間、セナの額に熱いものが押しつけられた。
「あっ……」
「御意にございます」
キスされた。
まるで初心な恋人の睦み合いのようにくちづけられて、セナの頬は朱に染まる。
「あ、あの……」
思わず額に手をやったとき。
隣から冷静な声音が降ってきた。
「ご心配には及びません、セナ様。腕の立つ者が自らを傷つける行為は調整が可能なので、見た目ほどの怪我ではないのです。シャンドラは太い血管を避けて……」
「ひゃあああああ!?」
ファルゼフが隣にいたことに全く気づかなかったセナは大仰に驚いてしまい、足を滑らせてしまう。
転びそうになった体を、シャンドラがそつなく抱えてくれた。怪我をしている左腕で。
怪我人の腕を使わせてしまうなんて本当に申し訳ない。セナはシャンドラの腕に支えられながら、どうにか体勢を整える。
「ファルゼフ……いつからそこに……?」
「初めからおりました。セナ様はシャンドラを案ずるあまり、わたくしの姿が目に入っていなかったようですね」
そのとおりなので、非常にいたたまれない。
……ということは、シャンドラにキスされて赤くなったことも間近から見られていたわけである。
両手で顔を覆うセナに、ファルゼフは淡々と説明した。
「陛下の指示は適切でした。あの場でシャンドラが忠誠を証明しなければ、大神官はおろか誰をも納得させることはできなかったでしょう。今回の計画におきましては、シャンドラの随行は不可欠です。無論わたくしも同行しますが、作戦の指揮は後ろからでも執れますからね」
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