第100話

 黒衣のその男は、慇懃に膝を突いた。

「……シャンドラです」

 紫色の双眸は、射貫くようにセナを見据える。

 なんと、シャンドラが百人目の男らしい。

 彼は王族のアルファであるわけなので、資格としては充分だ。

 後戯と称してシャンドラに抱かれたことを思い出したセナは、かぁっと頬を赤らめた。

 そのとき、大神官の鋭い声が飛ぶ。

「お待ちください。この男を儀式に参加させることは承服いたしかねる」

 ファルゼフは眼鏡の奥の双眸を大神官に向けた。

「なぜでしょうか、大神官殿。僭越ながらシャンドラはわたくしの弟でして、王族に名を連ねるアルファであります。腕も立ちますし、護衛としても最適です」

「ファルゼフ宰相は陛下から神馬の儀の遂行を任されているようだが、果たして貴卿ら兄弟をベルーシャ国境付近に随行させてよいものか、甚だ疑問だ」

「どういう意味でしょう?」

 ファルゼフの声が低くなる。大神官の言い方は、まるでファルゼフとシャンドラの兄弟を糾弾するかのようだ。何か問題でもあるというのだろうか。

 大神官はファルゼフを指差した。その行為は最大限の侮辱である。

「貴卿らの高祖母は王の娘であった。それゆえトルキア国の王族の末席に加われたわけだが、どうやら別の王家の血族でもあるようだな。調べさせてもらったが、祖母はベルーシャ王女だそうではないか! ベルーシャ国と縁のある貴卿らは儀式にかこつけて、よからぬことを企んでいるのではあるまいか?」

 ファルゼフとシャンドラの祖母がベルーシャ王女だという話は初耳だ。大神官の危惧するよからぬこととはまさか、ファルゼフたちがトルキア国を裏切るとでもいうのだろうか。

 居並ぶアルファたちの間から、どよめきが起こる。

 祖母がベルーシャ王女ということは王族の末席どころではなく、ベルーシャ国の王に即位できるかもしれないほどの地位だろう。

 だが、大神官に指摘されたファルゼフは微塵も動揺せず、いつも通り悠々と述べた。

「確かにわたくしどもの祖母はベルーシャ王女でございます。……ですが、王女といいましても、祖母の地位は正式には認められておりません。祖母の母親は千人いる愛妾のひとりで、地位の低い下女だったそうです。ベルーシャ王家では王の子であっても、王が認めなければ王族の地位は得られないという法律がございます。よって祖母はベルーシャ王家との繫がりが得られず、トルキア国で知り合った祖父と結婚いたしました。わたくしどもはベルーシャ王家に何も恩義がないのです。トルキア国で生まれ育ったわたくしどもが、どちらの国に忠誠を誓うかは明らかではございませんか?」

 ファルゼフとシャンドラの祖母は王女といっても、不遇な身の上だったらしい。セナ自身も隠された王の子という事情があったので、人ごととは思えなかった。父親である王に子と認められなかったなんて、とても哀しいことだ。その孫であるファルゼフとシャンドラが、ベルーシャ王家に何か申し立てることがあるかと言えば、祖母の名誉回復以外にないだろう。 それがよからぬことだなんて、到底思えない。

 けれどファルゼフの物言いは事実を淡々と述べるといった感じで、まるで生徒に数式を教えるような説明なので、大神官は同情を誘われなかったようだ。彼の疑いは晴れていない。

「うぬ……しかし……この黒衣の男は、アサシンだそうではないか。儀式に随行して、セナ様を密かに暗殺するつもりであろう!」

 大神官の具体的な指摘に、セナは息を呑む。

 否定して欲しいのに、シャンドラはなぜか動かない。頭を下げたまま、じっとしている。 そんなことはありませんと訴えれば、皆を納得させることができると思うのだが。 

 皆は息を呑んで視線を往復させていた。ファルゼフは口を開きかけたが、ラシードが手を挙げて制止する。

「大神官は疑っているようだ。シャンドラ、そなたの潔白を今ここで証明せよ」

「……御意にございます。どのように証明いたしましょうか」

 王の傲岸さをもって、ラシードは事も無げに告げる。

「己の剣を自らの体に突き刺せ。その刃はセナを傷つけるものではないと表さなければ、そなたの儀式への参加を認めぬ」

「御意」

 ラシードの台詞を反芻したセナは目を見開く。

 剣を突き刺したら、大怪我をしてしまうではないか。

「えっ……まって、待ってください!」

 何かのたとえであってほしい。セナが制止するより早く、シャンドラは腰から抜いた短剣の切っ先を、己の左腕に突き刺した。

 彼の黒衣が、みるみるうちに蘇芳色に染まっていく。ひどい出血だ。それなのに、シャンドラは顔色ひとつ変えなかった。 

 セナは椅子から立ち上がり、慌てて階段を駆け下りようとしたが、ハリルの腕に捕らわれてしまう。

「お願いです、やめて! やめてください!」

 ラシードは鷹揚に頷いた。すると、シャンドラはようやく腕から短剣を引き抜く。

 その際、彼は苦痛に顔を歪めた。刃からは、鮮血が滴っている。シャンドラの手首からも溢れる血が伝い落ちて、床に血溜まりを作っていた。

 演技などではない。ラシードの命令に従い、シャンドラは躊躇なく己を刺したのだ。潔白を証明するために。

「これでシャンドラは、私という王の命に従う忠実な部下であると証明できた。儀式への参加を認める。よいな、大神官」

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淫神の孕み贄 沖田弥子 @okitayako

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