第30話

勝負を見学していたセナの口元に微笑が浮かぶ。

ふいにアーチのむこうから、息を切らせた召使いが駆けてきた。セナの身の回りのことをしてくれる傍仕えの青年だ。

「贄さま、ここにいらっしゃいましたか。お捜ししました。このようなところに立っていてはお体に障ります。すぐにリヤドに戻ってお休みになってください」

「あ……」

鍛錬場に眸を巡らすと、召使いの声でこちらに気づいたハリルと目が合う。

こっそり見ていたことを知られてしまった。

気まずく俯くセナに、ハリルは片眼を瞑って軽く手を挙げていた。

「すぐに戻りますから」

「お伴いたします。おみ足は痛くありませんか? お手を取らせていただくことをお許しください」

ハリルと少し話したいと思ったが、召使いに手を取られて鍛錬場から連れ出されてしまう。元より騎士団は鍛錬の最中なので邪魔してはいけないのだ。セナは鍛錬場に背を向けて、大人しくアーチをくぐる。

閨ではいつも強引に抱かれるので苦手だと思っていたが、ハリルの騎士団長らしい雄々しくも頼もしい面を垣間見たセナの胸は甘く高鳴っていた。



リヤドへ戻ると、テラスでお茶をしたいと願い出た。室内にいれば高鳴る熱を持て余してしまいそうなので、風に当たりたかったからだ。

ガゼボのソファはゆったりとしていて、体を休めながらプールの水面を眺めていると心が落ち着く。吹き抜けていく風に頬を撫でられながら嗜むお茶も香りが高く、優しく鼻孔をくすぐる。

蒼穹の空に筆で刷いたような白練の雲を見上げていると、階段を上る靴音が耳に届いた。

重量感のある音なので召使いではない。

「よう」

にやりと口端に笑みを刻んでいるハリルは鍛錬を行っていたときに装着していた鎧は既に脱いでいた。水浴びして汗を流してきたらしく、髪から水滴を滴らせている。腰布のみを腰に巻き、足は脛まで隠れているが上半身は裸だ。雫を纏う逞しい褐色の肌を陽の光が煌めかせている。

「こんにちは、ハリルさま」

瑞々しい雄の色香を目の当たりにして、どきりと鼓動が跳ねてしまう。目を逸らしながら挨拶すると、ハリルは片眉を跳ね上げた。

「鍛錬を見てただろう。惚れ直したか?」

「ほ、惚れ……始めから惚れてなんかいませんから!」

槍を振るう姿は初めて見る勇猛さで、確かに格好良いと思ってしまったけれど。

いつでも自信に満ち溢れたハリルの小憎らしさには素直に頷けないのだ。

「よく言う。夜はあんあん言いながら、おねだりするくせにな」

無遠慮に晒されて、羞恥に塗れたセナは顔を両手で覆う。

夜は儀式のため、ハリルに毎晩抱かれている。行為の始めは自我を保っているのだが、彼に貫かれて激しく揺さぶられると、わけがわからなくなってしまうのだ。

「……ハリルさまのそういうところ、嫌いです」

唇を尖らせて顔を背ける。セナの傍らに立っていたハリルは、つと腕組みをして水面を眺めた。

「嫌いか。おまえに言われると堪えるな。始めの出会いが、まずかったよな」

食堂で初めて出会ったとき、セナを呼び止めたハリルは残り物を床に落として、食えと命令したのだった。彼は傲慢なので、常に自分の領域に相手を引き込もうとする。だからこそハリルが悔恨めいたことを口にするのを意外に思った。

「あれを根に持ってるんだろ?」

「そんなことありません。実は、あの野菜は、あの日の僕の唯一の食事だったんです。だから感謝しています」

確かに情けなさや惨めさは感じたが、ハリルが貴重な食べ物を与えてくれたことに変わりはない。根に持っているなんて、恨むような気持ちは微塵もなかった。

ハリルは訝るような半眼をむけてきた。けれど口元は綻んでいる。

「そうか? そのわりには、おまえからの好意を感じないな」

「好意といいますと……」

感謝することと好意は別物ではないだろうか。セナが瞬いていると、ハリルはするりと足下に跪いた。彼の喉元を風に揺れるローブの裾がくすぐる。真摯な双眸で見上げられ、鼓動がとくりと甘く刻む。

「俺はもっと、おまえから好かれたい。だからこれで犬食いの一件は水に流せよ」

セナの細い足首を持ち上げられる。繊細な模様で編まれたサンダルを脱がせると、足の甲をひと撫でされた。

優しい刺激に、ぴくりと肩が跳ねてしまう。

好かれたいなんて、どうして……。

神の末裔と贄の間には好意など介在する必要はないはずなのに、なぜハリルはそんなことを言うのだろう。

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