第5話

低い声音が響いた。有無を言わさぬ力強い声に名指しされたハリルは振り返り、瞠目する。

「ラシード、様。なぜ王がここに……?」

ハリルは素早くセナから離れて、現れた男に礼をした。

王様……?

セナは頭を上げて、太陽を背にした男の顔を見遣る。

涼しげに眦が切れ上がった鋭い双眸。すっと通った鼻梁に、整った形の唇は品の良さを思わせる。クーフィーヤから覗いた髪は夜闇のような漆黒だ。彼の眸の色もまた深い闇の色を湛えている。

砂漠の雄らしい精悍な相貌だが、気品が滲み出ているためか、怜悧な夜の月を連想させる美丈夫だ。逞しい体躯を純白のカンドゥーラに包んだ男は、強い眼差しでセナを射貫く。

どきりと鼓動が跳ねた。

遠い記憶の中で、彼の眸の色を見た気がする。

初めて会った人なのに、どうしてだろう。

「その翡翠色の眸、この紋様。間違いない。やっと見つけたぞ、セナ」

「え……? どうして僕の名前を……」

疑問はラシードと呼ばれた男が手を挙げたことにより遮られる。

彼の傍に控えていた従者らしき男性が奴隷商人に命じた。

「購入します。言い値を仰いなさい」

「ははっ。ありがとうございます」

セナを買ってくれるのだろうか。驚いていると、従者は驚くほど大量の札束を奴隷商人に支払っている。

漆黒の髪をした男は腰に佩いた短剣を抜いた。鋭い刃のダガーが、セナの足を拘束していた金具を斬りつける。

破壊された金具から足が外される。男は大きな手を伸ばして、労るようにセナの背を起こした。

「私の名はラシード。もう大丈夫だ」

「ラシード……さま」

この方が、新しいご主人様。

名前に聞き覚えはなかった。やはり、どこかで会った気がするのは思い違いだろう。

セナを拘束するためのベルトの鍵を奴隷商人から受け取ったラシードは、躊躇いもせず解錠した。ベルトはオメガ街で奴隷を判別するためのものだが、購入したあとも付けたままにするものだと聞く。そのほうが奴隷として扱いやすいためだろうと思うが、なぜラシードはすぐに外してくれるのだろうか。

幼い頃から装着していた皮のベルトの痕は赤くなり、皮膚が剥けていた。ラシードは自身が纏っていた上等なマントを脱いで、裸のセナに着せかけてくれる。セナの体は柔らかいマントにすっぽりと包み込まれた。

後方に控えながらも、口惜しそうに唇を歪めるハリルと目が合う。ラシードが現れなければ、彼に買われていたかもしれない。ハリルの眸の色に捕食するような獰猛な気配を見つけて背筋が竦んだ。

ラシードはセナの肩を抱きながら、尊大に命じる。

「ハリル。宮廷には内密にしろ。今はな」

「御意」

両者の間になぜか張り詰めた空気が満ちる。

ハリルよりラシードのほうが位が上のアルファらしい。王や宮廷というからには、まさかラシードは本当にトルキア国の王様なのだろうか。

オメガ街で暮らすセナは王宮になど行ったことはないし、もちろん王の姿も拝んだことはない。

おずおずと見上げようとすると、セナの視界がぐるりと巡る。

「あっ」

マントに包まれたまま、ラシードの腕に抱き上げられていた。

ラシードが広場を進めば、見物人の波が割れる。開かれた路をセナを横抱きにしながら堂々と突き進むラシードは待機していた黄金の馬車に乗った。

「出せ」

低く命じれば、御者が手綱を振るう音が耳に届いた。ゆっくりと車輪が回り出す。

馬車に乗ったのは生まれて初めてだ。真紅の羅紗張りの座席に小さくなって座りながら外に目をむければ、オメガ街の入り口にある門が車窓に映る。

この街を出て行ける日が来るなんて。

もう奴隷市場に並んで恥ずかしい格好をしなくても良いのだ。せめて水だけは飲ませていただける。そのことに安堵して、セナの頬に久しぶりの笑顔が戻る。

「ありがとうございました、ラシードさま」

隣に泰然と腰掛けているラシードは、礼を述べたセナに眉をひそめる。

「何か礼を言われるようなことがあったか」

「僕を買ってくださいました。ラシードさまが、僕の新しいご主人様です。一生懸命に尽くしますから、よろしくお願いいたします」

ラシードが王様ならば王宮の召使いは沢山いるはずだが、こうして王自ら召使いを選ぶこともあるのかもしれない。セナのどこに召使いとしての見所があったのか分からないが、皿洗いや掃除はできる。新しい仕事場でも頑張ろうと奮起する。

ラシードは双眸を細めてセナを眺めていたが、ふ、と口端に優雅な笑みを刻んだ。

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