第66話

 それなのに自分は、己の役目も果たさずに、不満ばかりを抱いている。

 とてもそんなことは口にできない。

 セナは目線を下げた。

「あ……なんでもないのです。ただ、少し、寂しくなってしまったのです」

「そうか。不安に思うこともあるだろう。だが、私はそなたを心から愛している。それは私が死しても変わらない。私の墓石には名の他に、そなたへの愛の言葉を刻む」

 真摯に訴えるラシードに瞠目する。彼があまりにも大真面目なので、思わずセナは笑ってしまった。

「何を言うんですか。ラシードさまが死ぬだなんて、まだまだ先の話です。墓石に刻む言葉なんて、今考えなくていいですよ」

 ふっ、とラシードは軽い嘆息を零した。

 咎めるような眼差しで、セナの翡翠色の瞳を覗き込む。

「そなた、気づいているか?」

「え?」

「セナは、私に甘えるときは『兄さま』と呼ぶのに、冷静になると名で呼ぶ。ラシードさまと呼ばれると、なんだか他人行儀で寂しいな」

「あ……それは……」

 言われてみれば、行為のときは舌足らずに『兄さま』と呼んで甘えた声を出していた。普段は人目もあるわけなので、『ラシードさま』と呼び、礼節を弁えている。

「だって、ラシードさまは王です。いつでもどこでも、兄さまと呼ぶわけにはいきません」

 王家においては家族という形式よりも、地位が優先される。王家はひとつの家族のものではなく、トルキア国のものであるという考え方があるからだ。

 けれどラシードも、セナの態度に寂しさや不満を覚えていたのだ。

 自分のことばかり考えて、愛する人のことを思いやれていなかったなんて、なんて傲慢だったのだろう。

 視線を彷徨わせるセナの頬に、ちゅ、とくちづけが降ってくる。

「わかっている。そなたを少し困らせてやりたくなっただけだ」

「もう……兄さまは意地悪なんだから……」

 微笑みを浮かべたラシードは、今度はセナの鼻先にくちづけた。

「そなたがあまりにも可愛らしいので、いじめたくなるのだ。色々と趣向を凝らして啼かせてみたくなる」

「……宰相の執務室では、もうイヤです」

 その言葉に表情を改めたラシードは、重々しいものに声色を変えた。

「淫紋を含めた今後の懐妊のことだが、一度話し合いの場を設けることを考えている」

「話し合い……ですか」

「そうだ。懐妊はセナひとりの問題ではない。私と、ハリルの意見も汲んでこそだろう。私たちは、イルハーム神の末裔なのだから」

 子を孕むといっても、セナひとりで孕むわけではない。

 しかもセナたちには、淫紋の一族という立場があるのだ。懐妊には淫紋と、神の末裔という血族の問題が絡んでいる。

「淫紋が少しだけ動いたとファルゼフは言ってましたけど、本当でしょうか? 下腹は熱いと感じましたけど……ラシードさまは何か気づきましたか?」

 セナの疑問に、ラシードは神妙に頷く。

「確かに淫紋は動いた。ほんのわずかだが」

「えっ! そうなのですか!?」

「私の雄を出し挿れしている最中にな。どうやら淫紋は活動を再開したようだ。しかし、動いたと断定するには、あまりにも微弱すぎる」

 セナは申し訳なさに俯いた。

 四年前の儀式のときには、淫紋はまるで生き物のように蠢いたのだ。それに比べたら、見間違いかというほどのわずかな動きなのだろう。

「セナの体調も気にかかる。発情期が来ていないか、医師の診察を受けてくれ」

「わかりました」

 定期的に医師の診察は受けているので、あえて診察することに戸惑いはない。医師の見解も伺って然るべきだろう。

 ラシードが召使いに申しつけると、すぐさま宮廷専属医師が呼ばれた。

 助手を従えた老齢の医師は、寝台に横たわるセナを診察する。ラシードもすぐ傍でその様子を見守っていた。

 やがて診察を終えた医師は、セナの裸身に毛布をかける。傍に立つラシードに、医師は低頭した。

「セナ様におかれましては、発情期の兆候が見受けられます」

「では、懐妊するということだな」

「その可能性は非常に低いと思われます。現段階の発情の程度は七パーセントほどです」

 医師の言葉に、ラシードは片眉を跳ね上げる。百パーセントが頂点とすると、ほんのわずかな発情ということだ。

「七パーセントだと? いつ、発情は頂点に達するのだ?」

「それはなんとも申し上げられません。セナ様はゆっくりと発情される体質ですので、すぐに数値が上がるとは言えません。もしかするとこのまま上がらないかもしれません」

「なんだと? 淫紋の動きと関連はあるのか?」

「わたくしは神の力については専門外ですので、淫紋と懐妊に関連があるのかはわかりかねます」

 ラシードは舌打ちしそうに顔を歪めて、手を振った。退出しろという合図だ。医師と助手は足早に部屋を出て行く。

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