第44話
「無論だ」
三人で足を運んだ先は、広大な王宮の端にある小さな邸宅だ。ひっそりと佇んでいるその家はもう誰も住んでいないようで静まり返っている。
室内に足を踏み入れたとき、セナの胸には懐かしい思い出が蘇った。
「あ……ここ……」
脳裏を鮮やかに駆け巡る景色が、色褪せた室内に重なる。
優しい母の手、赤子のセナを覗き込む兄の漆黒の眸。
あの日の穏やかな空気すら感じるようだ。
「ここは……僕が赤ちゃんのときに過ごしたところ……ですね」
「そうだ。先代の神の贄であるリヨは、子のセナとふたりでここに住んでいたのだ」
セナの母は、リヨという名の神の贄なのだ。けれどここにリヨはもう住んでいないようだった。家屋は整頓されているが、長いあいだ使われていないことが窺えた。
室内を見回していたハリルは首を傾げる。
「先代の神の贄は子を孕まなかったはずだろ。セナが産まれたのなら、どうしてそれを秘匿したまま王宮の隅に隠れるようにして暮らしてたんだ?」
「リヨは子を孕んだ。ただし儀式から、十年後のことだ」
「十年後!?」
セナと共に驚きの声を上げたハリルは、すぐさま納得する。
「ああ……そういうことか。王は妃を娶り、王子が産まれた後も、ここに通っていたんだな」
ラシードは頷く。つまり、先代の王は妃とラシードという後継者の王子がいるにもかかわらず、リヨと心と体を通わせていたのだ。淫神の儀式が終了してからも王がそうしていたのは、リヨを愛していたからに他ならなかった。だがもちろん妃の手前、公にはできなかったのだろう。
室内を通して過去に思いを巡らせるラシードの眸には、遠い日の光景が映っているようだった。
「セナは儀式により誕生したわけではないので神の子と認められず、王の隠し子という扱いになっていた。だが淫紋の欠片が刻まれているので、将来は神の贄としての地位を得られるはずだった。……ところがある日、何者かが母子を殺害しようとここを襲った。リヨは赤子のセナと共に逃げ出して、行方知れずになった」
「内部の仕業だな。マルドゥクだったわけか」
「そうだ。目星はついていたが、当時は父王の絶大な信頼を得ていたマルドゥクを罰することは叶わなかった。そして、リヨの遺骸だけが王宮に戻ってきた」
息を呑んだセナの背を、ハリルが支える。
リヨは、母さまは、もうこの世にいなかったのだ。
沈痛な面持ちで告げるラシードの言葉を、懸命に受け止める。
「路傍で力尽き、息を引き取っていたそうだ。リヨは王族の墓の傍に弔った。そしてリヨの傍らに子はもういなかった。すまない。そなたたちを守ってやることができなかった」
母はセナをマルドゥクの手から逃がそうとしてくれたのだ。
そして誰かに預けたか、または力尽きた母から赤子を連れ去った奴隷商人によって、セナは奴隷市場に売られた。
自らの出生の秘密とそのいきさつを知り、セナは深い息を吐いた。
母さまは、既に亡くなっていた。そして父である先代の王も。
けれどふたりはセナを確かに愛してくれたのだ。事情はあったが、父と母が愛し合って産まれた子だった。両親にもう会えないのは哀しいけれど、その真実を知り得ただけでセナの辛い過去は救われた。
「真実を知ることができて、僕は幸福です。ラシードさまは昔から僕と母さまのために、様々なことを配慮してくださったんですね」
「私はあのときからずっと、セナを捜していたのだ。私のつがいとなる、神の贄を。そして、私の弟を」
ラシードを見上げれば、あのときの兄と同じ漆黒の眸をしていた。
朗らかな笑みでセナを見守る少年だった兄と、今の精悍な青年となったラシードの面差しが重なる。
「兄さま……?」
きつく抱きしめられて、ラシードの力強い腕に包まれる。
「私は少年の頃よりこの家を訪れて、リヨの腕に抱かれるセナを見守っていた。リヨと同じ翡翠色の眸をした赤子のそなたは私に笑いかけてくれたのに、過酷な運命を背負わせてしまった兄を許してほしい」
やっと、会えた。
ラシードが、探し求めていたセナの兄なのだ。
抱きしめ返したセナの眦から涙が溢れる。
「兄さま……! 会いたかった。僕はずっと母さまと兄さまに会いたいと願っていました」
「セナ……。もう離さない。これからはずっと私の傍に置く。たとえ子を孕まなくとも、私は妃を娶らない。そなただけが私の運命のつがいだ」
ラシードはセナを運命のつがいだと認めてくれる。運命とは、こんなにも傍にあるものだったのだ。愛しい人に受け入れられた喜びに、セナの胸を占めていた想いが溢れた。
「好きです、兄さま。僕の、兄さま……」
兄と分かっても、ラシードを男として愛し、抱かれたいと思う気持ちに変わりはなかった。
ラシードの熱い唇にそっと口づけられる。セナは瞼を閉じて、柔らかい接吻を受け入れた。
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