第13話
確か、神の子を孕ませる……と語っていた気がするが、一体何のことだろうか。
淫神の儀式は王家に受け継がれた極秘の儀式らしく、ベータですらないオメガのセナには未知のものだ。おそらく王侯貴族である上級アルファの間でのみ噂になっているのだろう。本日行われる奉納の儀を前にして、次第に緊張が高まる。
ふいに足音がしたので振り返る。呼びに訪れた召使いだろうかと思ったが、思いがけず現れた人物を目にしてセナは瞠目した。
「ハリル……さま」
食堂で出会い、奴隷市場でセナを買い上げようとした騎士団長のハリルだった。今日はなぜか、繊細な刺繍が施されたシャルワニを纏っている。光沢のある高価な素材で織られたシャルワニは婚礼や儀式など特別な日に男性が着用するコートだ。
ハリルは日に焼けた逞しい体躯を白銀のシャルワニに包み、精悍な顔に卑猥とも取れる笑みを刻んでいた。
垂れた眦は愛嬌があるが、太い眉からは強い意志を持つことが窺える。真っ直ぐな鼻梁に厚い唇は雄々しく、それでいてどこか淫靡な匂いを漂わせていた。
品のある衣装とそぐわない野性味溢れる男の香りに、身の危険が迫っているかのような警戒心が芽生えてセナは一歩身を引く。
「今日は奉納の儀だな。よく眠れたか?」
出し抜けに気になっていたことを持ち出された。
ハリルは奉納の儀について周知している。彼は騎士団長であり、上級アルファなのだ。もしかして儀式に参加するのだろうか。
「奉納の儀のことをご存じなんですか? 食堂でも儀式について仰ってましたよね」
「当然だ。俺は神の末裔だからな」
「神の……末裔?」
イルハーム神が産んだ子たちの末裔がトルキア国の王族であるという言い伝えがあるが、それはあくまでも伝承のはずだ。
「ラシードの従兄弟ってことさ」
「そうなんですか。全く似ていませんね」
「血なんてそんなものだろ。兄弟だって似ていないやつは大勢いるからな」
ハリルがラシードの従兄弟だとは意外だった。考えてみれば王侯貴族は血縁を重視するので、騎士団長という重職に就いているハリルが王の従兄弟だとしても不思議はない。
ハリルはゆっくりと歩み寄り、セナに近寄ってきた。セナよりも遥かに背が高いので、見下ろされる格好になる。伸ばされた大きな手が細い頤にかかり、掬い上げられた。濃厚な雄の香りが鼻孔をくすぐる。値踏みするようなハリルの双眸に、身動きができなくなる。
「まさかおまえが神の贄だったとはな。俺の愛人にしたかった」
愛人にしたいだなんて言われて怯えが走る。ハリルは遠慮なく欲の滲んだ目で見据えてくるので、口を開けば淫らなことをされそうな気がした。
「あの、手を……はな……」
つい喋ってしまえば、精悍な顔が傾けられる。鼻先がくっつきそうになり、セナは思わずぎゅっと目を瞑った。
「何をしている、ハリル。儀式の前に贄に触れることは禁じられている」
厳しい声音が響いたので身を竦ませる。神官を伴って現れたラシードは、ハリルと同じ白銀のシャルワニに身を包んでいた。同じ衣装なのにふたりの纏う空気が異なるので、違った印象を受ける。ラシードが静なら、ハリルは動だ。
咎められたハリルは口端を引き上げて皮肉めいた表情を作った。
「目の前に餌を置いて食うなと言われてもな。まったく俺は損な役回りだ」
ようやく手を離してくれたハリルの不遜な物言いに驚く。人前では王を立てても、必要がないときは従兄弟として遠慮のない態度を取るらしい。
神官はハリルに頭を垂れながらも、庇うようにセナの体を覆った。厚いローブの袖で隠されたので神官の手は直接触れていない。
ラシードは厳しい双眸でハリルに対峙した。
「神の末裔としての責務を果たせ。それとも辞退するか? 私は貴様が身を引いても一向に構わない」
「やめるなんて、ひとことも言ってないぞ。ラシードこそ、俺がいないと後悔するんじゃないか?」
「それは如何なる意味だ」
ラシードは静かな問いの中に憎しみすら込めてハリルを見据えた。同一の装束を纏う、ふたりの男は睨み合う。
「いずれ明らかになるな。神の贄が証明してくれる」
セナは神官の背に隠されながら、はらはらと事態を見守る。やがて無為だと悟ったのか、ラシードはふいとハリルから視線を剥がしてセナに移した。
「奉納の儀の前に、禊を行う。セナ、こちらに来なさい」
「はい、ラシードさま」
身を翻したラシードの後ろを神官と共に続く。ハリルは「まるで雛だな」と呟いたが、それきり黙して後に従った。
パティオを通り抜けた神殿の奥には、禊を行うための水場があった。
まるで広い池のようなそこは白亜の石柱が輝き、透明な水が湛えられている。周囲には幾人もの神官が漆黒のローブを纏い、身じろぎもせず佇んでいる。それから少人数の召使いが控えていて、セナの皮膚に手が触れないよう慎重に衣服を脱がせられた。
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