第36話

下弦の月は暁天に薄く浮かんでいた。

もうすぐ儀式は終わりを告げる。

満月を迎えたときから受胎の室を訪れる順番は逆になったので、今は始めにラシードに抱かれてからハリルの元を訪れるという運びになっている。

ハリルは朝の鍛錬のため、いつも陽が昇る前に受胎の室を出ていた。見送りに出たセナを振り返る眼差しには愛しさが滲み出ている。寝起きだからそういう風に見えるのだろうか、とセナは朝靄に包まれながら思った。

「まだ寝てろ。無理に見送らなくていいんだぞ」

「無理してません。離れるのが寂しいから……」

眠りから覚めたとき、寝台にひとりでいることに気づいたときは、とてつもない寂しさに襲われる。だからラシードのときもハリルも、できるだけ見送るようにしている。かといって去って行く背を眺めるのもまた寂寥感が滲むのだが。

萎む言葉の端を耳にしたハリルはわざわざ入口まで戻ってきて、佇むセナを腕の中に包み込んだ。小柄な体は巨躯にすっぽりと覆われてしまう。

「鍛錬の頃合いを見て、一度戻ってくる。涎垂らして昼寝してろ。襲ってやるからな」

「涎なんて垂らしませんから。お仕事頑張ってください」

冗談とも本気ともつかない戯れ言に微苦笑を零しながら、ハリルの熱い体を身に刻むように抱きしめ返す。ふたりの熱はしっくりと馴染んでいた。

「おう。また後でな」

ちゅ、と甘い音を立てて軽く唇を啄まれる。爽やかに微笑むハリルは片手を挙げて回廊のアーチをくぐっていく。

彼の後ろ姿が見えなくなると、振り返していた手を下ろして胸を押さえる。

ほんの少し会えないだけなのに、こんなにも胸が苦しい。

受胎の儀が重ねられるに従って、ラシードとハリルへの想いは恋心となって募っていることに否応もなく気づかされる。

こんな感情を抱いてはいけないのに、どうしたら良いのだろう。

彼らとは神の末裔と神の贄という儀式を通して子を孕むためだけの関係のはずなのに、まるで恋人のように睦み合ってしまっている。ふたりが思いやりをもって接してくれるので、絆が芽生えているような気がして勘違いをしそうになる。

ラシードとハリルの傍にずっといたい。それは身勝手な願いなのに。

まずは神の贄としての責務を果たして、神の子を孕まなければならないのに。

セナはとある不安に襲われた。

もし儀式が終了しても子を孕んでいなければ、神の子は産まれない。そしてラシードは妃を娶り、子を成してしまうだろう。ハリルも当然王族から妃を迎えるはずだ。彼らには王家の継承という大事な役目がある。しかしそうなることは耐えがたい苦痛をセナの精神に与えると予感した。

しかもそれでは、王なのに神の子ではないという烙印を再び王子に負わせてしまうことになる。神の子でない自らに失望を覚えているラシードの望まない結果だ。

セナとしても、神の子を孕みたい。イルハーム神に祝福されて、ふたりに愛された証を残せれば、それ以上の幸福などなかった。

下腹にそっと手で触れてみるが、子がいるような気配は全くない。孕んでいたとしても、すぐに子が動くわけではないから判別できるまでには時間がかかるだろう。

ふと、セナは今後に思いを馳せた。

仮に子が産まれたとしたら、その後セナはどうなるのだろうか。聞きたいけれど、今までの経緯を考えればラシードやハリルが答えてくれるとは思えなかった。

神の贄としての役目は終えてしまうのだ。王宮を追い出されるのだろうか。そしてオメガとして、以前と同じ生活をしなければならないのか。王子を我が子として抱けないままに。

イルハームより授かった神の子なのだから、王子はセナの子どもではないのだ。セナが母親の権利を主張することなどできない。始めから分かっていたはずなのに、産まれた子を抱けないなんて考えただけで哀しくて胸が引き絞られる。

「先代の神の贄だった人は、どうしたんだろう……」

先代の儀式では子を孕まなかったという。当然そういう結果も有り得るだろう。それはイルハーム神の加護を得られなかったとみなされる。その後の、神の贄の処遇も良いものとは想像できなかった。

先代の神の贄は、どうなったのか。

真実を知りたいと思い、セナは湯浴みを終えると神殿を出た。既に陽は高い。ラシードは政務に忙しく、ハリルは鍛錬に勤しんでいることだろう。

王宮の回廊を進み、議事場に程近い場所を巡る。召使いたちは贄の衣装を纏うセナに平伏し、役人は頭を下げて路を譲る。

けれどそれも神の贄でいる間だけだ。儀式が終わればセナは、ただの奴隷のオメガなのだから。イルハーム神の威光が皆を平伏させているに過ぎない。

きっとラシードとハリルもそうなのだろう。

儀式だから仕方なく、セナを抱いている。神の子が産まれればふたりの地位も盤石なものになるだろう。ふたりが懸命に孕ませようと精を注ぐのも、そのためなのだ。

愛しているからじゃない。

改めて自覚すれば、胸の裡から哀しみが込み上げた。

愛されたいと願うなんて、おこがましいのに。

「……ここかな」

やがて目当ての場所を発見して足を踏み入れる。

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