定めの裂け目『ギロード渓谷』
第42話 ジゴー・エルギー
「その……時計塔などは、いかがでしょうか」
少年は、しばし父の前でもじもじと指先をいじっていたが、やがてその拳を握りってそう言った。ここは父の書斎。大仰な木製の机の向こう、これまた立派な背もたれと手すりのついた椅子に腰かけている。背後には大きな窓が設置されてて、そこから差す要綱のおかげで彼の顔はあまりよく見えない。
「時計塔?」
息子の言葉に、男は首を傾げた。
「そうです。今度の町の改修工事の目玉です。大きな塔を作り、中に時計を入れるのです。その時計は、日時計や水時計ではなく、機械時計にするのです」
「機械時計?」聞きなれない言葉に、男は怪訝な表情で返す。対手は七歳の息子。それが、自分の知らない言葉をつらつらと述べるのだ。
「はい。漸く隣国のデギドの聖堂で一つ製作されたと聞きます。その技師を呼んで作らせるのです」
「ほう。デギドの技師か」
父の顔色が曇る。その様子に、少年は唾を飲んだ。
「デギドは確かに、表面上は友好国だが……」
「この国では、長さも重さも規定がきちんとなされ、統一的に扱われていますが、時間については御座なりだとは思いませんか。想像してみてください、メートルやグラムのあやふやな世界を。時間だってそうです。きちんと長さを決め、それを周知すれば、世界はより便利になります。作ればわかります」
「ふむ。いいだろう。話だけは聞いてみる。デギドには知り合いがいる。問い合わせてみよう。だが、一つ教えろ」
男は身を乗り出して、息子の目をしっかりと見据えた。少年は唾を飲んだ。
「どうして機械時計だの、時計塔だのを知ったのだ。わたしだって、周辺国の出来事には目を光らせているつもりだが」
「……旅人です。たまたま、酒場の辺りで聞きました」
「またお前はそうやって外に出て……」
彼は背もたれに体重を預け、深くため息をつく。そんな父の表情に、ばつが悪そうに少年は顔を伏せた。
「まあいい。男なら、あらゆるものに興味を持つのも道理だ。だが、行き過ぎては困る。お前は、エルギー家の嫡男だからな」
そういって、彼はわざわざ息子の前まで出て、彼の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「今の提案、興味深かった。新しいものは領民にとってもいい刺激になるだろう。アルバンに調査させる。もう下がっていいぞ、ジゴー」
その言葉に、ジゴー少年は踵を返し、その裏で思わず笑みを零してから、父の書斎を後にした。扉を閉めてから、彼は深くため息をつく。
『カット』
廊下はくすんだ赤の絨毯が、窓からはまだ昼下がりの陽光が降り、さわやかな風が吹き抜けていたが、それがぴたりと止まった。
『なんか楽しそうだねえ、君ィ』
それは、女の声。どこからともなく聞こえてくる。その声に、少年は口元を引き締めた後、深くため息をつく。
「そんなことはない」
『嘘つけ。はあああ、嫌になっちゃうなあ。折角いいものスカウトできたと思ったのに。それが、毎日家庭教師にいい顔して家族喜ばせて、町に出ては情報収集。よかったね、やっとこの世界に機械時計が生まれて』
「別に、そういうつもりじゃない!」
『君だけ記憶持って人生二回目だからね。しかも、こんなオールディなやつじゃなくって、二千年代だし。ねえねえ、テレビもゲームもないこんな退屈な世界なんてさ、もう飽きたでしょ。七年もやってんだよ、飽きなって。それで……』
「ぶっ壊せって、そういうのか」
『その通り。ほら、いいものあんでしょ』
その言葉の通り、彼の目の前に奇妙な道具が落ちている。
黒い板と、蝶番でつないだ棒を組み合わせた奇妙な道具。この世界ではまだ存在していない、『映画』の撮影に使う道具、〈カチンコ〉だ。
その板部分には、本来文字が書いてあるらしいが、その上には今、ぐしゃぐしゃと乱れた線が書き殴られている。
「これがどうしたんだ」
『おかしいなあ。わたしは君の最後の願いを叶えてあげるために、二度目の人生プレゼントしたんだよ。ほら、もういいでしょ。この町も、人も、全部壊しなって。わかってるでしょ、人間なんて碌なもんじゃない』
「だとしても、ここは……」
『ここは、違うって?』
「……」
『時代が違うだけで、同じ人間だよ。周囲の人だって、君が領主様の息子だから少し待遇がいいだけさ。わからないかなあ、わかんないか、君、子供だもんね。子供のふりしてる十八歳を見てるこっちの身にもなってよ。違うか、十八足す七で二十五歳? お兄さんじゃん』
「何が言いたい」
『おー、怖い怖い。はいはい、じゃあすてきな女神様は退散いたしますー』
それはまるで白昼夢。しばし、ジゴーはそのまま硬直し、すでに廊下を風が吹き抜けていることにも気づかなかった。廊下の上に落ちていたはずの〈カチンコ〉も消えていた。
「お坊ちゃま、いかがされましたか」
その声にはっとして振り返る。アルバン・ミョルン。父、リドリー・エルギーの代理人として、ともにイヴァント王国の東、グバードを治めている男だった。
「大丈夫です。少しぼーっとしていました」
「らしくありませんな。最近、根を詰めてお勉強をしすぎなのでは」
「いえ。本当に大丈夫です」
「そうですかなあ。わたしであれば、もっとお坊ちゃまには剣の稽古や市井について見学を進めるところですが」
自慢げにアルバンはそう言って、ジゴーに目線を合わせるために膝をついた。
「それは興味深いが……」
「でしょう。でも、グバードは戦争よりも領民の統治と、麦の生産が第一。お父上の判断は正しいかと。さあ、早いうちに屋敷を出なさい。しばらくお父上はわたしと、広場の改装とグバード入植四十年の式典の話がありますから、町で冒険のチャンスですよ」
アルバンはジゴーへそう耳打ちすると、すっと立ち上がって咳払い。その様子がおかしくて、ジゴーは思わず頬を緩めた。
「ありがとう、アルバン。行ってきます」
「ええ、でも、夕方には戻ってくるんですよ。最近は、川沿いに旅の一団がいますゆえ。子供が近寄ってはなりません」
はい、と元気よく返事をし、ジゴーは駆けだした。
ジゴーの最近、もっぱらの楽しみは町へ出ることだった。一階建ての大きな平屋の屋敷を飛び出し、だだっ広い芝生の生えた庭を抜け、外へ出る。
土を固めた街道を下り、曲がりくねった松の幹をそのままつかった、門というにはあまりにも貧弱なそれが、グバード最大の町ネルド。その傍に、二人の子供がいた。歳も同じぐらい、七歳程度。
「ジゴー、遅いよ! 昼過ぎって言ったのに」少女エリーは大声でジゴーに呼びかける。
「もう夕方になっちまう!」もう一人は男の子。コリーも不満を隠さない。
「ごめん、父上に捕まっちゃって。でも、まだ夕方には遠いから大丈夫」
「そうかなあ。もう何時間も待ったよ」コリーは腕を組んでジゴーへいう。
「まさか。出るとき庭の日時計を見たけどまだ二時にもなってない」
「じゃあ、大丈夫ね。今日はネルドの広場の工事現場に行きましょ!」エリーは大声で二人に促す。
「わかった」
「幕がかかってて中は何やってるかわからないから気を付けろよ」落ち着いて返事をするジゴーと対照的に、コリーはその先に何があるのか、楽しみで仕方がない様子。言葉を裏腹に、すでに足踏みが止まらない。
『子供のふりしてる十八歳を見てるこっちの身にもなってよ』
ふと、『すてきな女神様』の言葉が蘇る。確かに、滑稽かもしれない。ジゴー・エルギー。もとい、■■■■は、二千二十年代の日本出身の『転生者』だ。だが、だからと言って現地の子供のことを無視する理由にはならない。自分は今、地方領主の息子、ジゴー・エルギーであり、七歳の子供という役を持っているのだ。
先を行く二人の子供に導かれるように、土を踏み固めて作られた道を走り、布の屋根犇めく市場に到着する。イヴァント王国の首都からは遠いが、畑や果樹園が近いここでは、市場の賑わいも一入である。
「おや、また坊ちゃんじゃないかい」
「ほんと、今日も元気だねぇ」
「ほれ、お父様譲りの逞しさが、もう顔に出てる」
「おやおや、坊ちゃん! また新しい遊びを見つけたのかい?」
「ちょっと心配になるが、まあ元気なうちは大丈夫か」
「坊ちゃまのおかげで、町もなんだか明るくなった気がするよ。あの無邪気さが何よりの宝さ」
「あんなに活発で礼儀正しい子、町の自慢だね」
市場を駆け抜ける間にそんな声が聞こえる。ほとんどはお世辞だろう。
「ジゴー『様』真っ赤になってやんの」
ふと振り返ったコリーが、ジゴーの顔を差して笑った。
「別に、そうじゃない」
慌てて言い繕うが、ジゴー自身、顔が熱くて仕方ない。
「あ、ほんとだー。照れてる!」
エリーもまた大声で笑う。
「でも、ジゴーって機嫌悪くなると面倒になるからこれくらいにしましょ。ほら、足止まってる」
エリーはそう言って、ジゴーの手を取って引っ張った。すると、頬を膨らませて、やや乱暴にコリーもまた、ジゴーを掴んだ。
すぐ目の前には、布で覆われたり、工事のための足場が突き出て見えた。ネルドの町の広場は工事中。だが、それゆえに子供たちの興味は尽きない。
そして、リドリー・エルギーの承認さえ下りれば、ここに時計塔が建てられるはず。
ジゴーはその様子を想像し、思わず空まで見上げた。どこまでも澄んだ青空と、ゆっくり流れる白い雲。
もしもここに、時計塔が立っていたら、規則正しく時を刻み、そして、見せつけていたであろう。
時に、正しく今、このイヴァント王国の端にて、正確にとある出来事を刻むなら、こう語るのが正確であった。
——ジゴー・エルギー暗殺計画実行まで、あと、六時間。
夕刻を超え、辺りが暗闇になるまでの、残り時間である。
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