防人の地『旧・第四北東基地ザボロド』

第2話 雪と穢れ

 イヴァント王国の北面は、空に向かって柵のように並び、なおかつ高く聳えるコスモス山脈に囲まれており、近隣の国と比べると随分小さな国土を持つ。


山脈の頂上は通年溶けることのない真っ白な冠雪を被っていて、青く見える中腹から麓にかけての光景と併せて、その美しさは王国の象徴であり国民の誇りでもあった。それ故か、この国の王冠は純銀とダイヤモンドで飾られた、静かではあるが、かくも厳かなものである。王族の決まりである青く美しい衣装と合わせて、彼らはコスモス山脈の荘厳さをそのまま纏っているのである。


 かの国の主な産業は畜産や林業であるが、鉄鉱石を始めとした鉱物の採掘も行われている。山岳地帯がほとんどの国故、あまり畑に適した土地はなかったが、比較的緩やかな斜面や段々畑を活用して、輸入に頼らなくても、ほとんど自給自足ができている。水資源も苦労したことはない。雪解け水が川となり国民と大地を潤しているのだ。それは交通手段としても頻繁に使われている。


 白と青の山脈に囲まれ、針葉樹の森の中にあるイヴァント王国は、その全てを大切に扱う。イヴァントの国旗にも白と青、緑を取り入れ、その中央には、山脈の最も畏れ多い生き物としてユキヒョウを選び、組み込んでいた。


 政治の中心となる王宮は二つ。山の峠にある第一王宮と、そこから下ってコスモス山脈の麓、その谷に面した第二王宮。かつては第一王宮のみだったが、山脈側は他国に近く、特にカシリド帝国を警戒して、別邸扱いだった大きな宮殿を元に第二王宮が作られた。こちらに貴族たちもこぞって邸宅を立てたおかげで、今では第二王宮こそが政治の中心となっている。


 それ故、第一王宮の現在の役目といえば、建国以来続く儀式を行う祭場であった。特に、産まれたばかりの王族はそこで過ごし、神との挨拶を済ませるのだ。(いくら隣国に近いとはいえ、百年続いた伝統を捨て去る理由にはならなかった。未だに石を積み、気を組む建築を行い、井戸水を組んで暮らす彼らは、そこまで『文明化』していなかったのである)


だから〈彼女〉は覚えている。第一王宮で過ごした日々のことを。朝、透き通るような青空を見上げたこと。屋上から眺めた真っ白な剣を連ねたようなコスモス山脈を。岩肌を駆ける美しい河川を。その下、針葉樹林の合間を歩く、誇り高き獣、ユキヒョウの姿を。或いは、城下の石畳の上を行き交う人々の息遣いを。


 父は言う。ここは、われらが神との謁見の果たす場であるとともに、われらがなにものの上に立っているかを教えられる場所だと。


 幼いながらに〈彼女〉は直感的に理解した。豊かな国土と、動物たち。そしてたくさんの人々の営みによってこの国は成り立っている。


『お父様。では、あれは――』


 ――『あれ』は、一体なんと呼べばよいのでしょうか。


山の麓から遠く、その下の小さな町々からさらに向こう。羊飼いたちの村や、段々畑、緩やかな谷の斜面に作られた果樹園。よりもっと遠く。王国が透き通るように晴れやかな〈昼〉ならば、あれをなんと呼ぼう。


〈わたし〉は、それを、庭で転んだ時に指先を切ってしまったときに溢れ出た、血のように思う。


 太陽を遮る黒い煙。

 真っ赤に染まり、紅蓮に輝く邪悪な大地。

 毒を含んだ煤を吐き続ける無数の煙突。

 密集し、息の詰まるような『高層ビル』群。

 油で鈍色に穢され腐った森。

 降りしきる泥のような雨。

 汚臭を放ち、死んだ魚を下流へ押し流す川。

 小さな砂粒と化し、吸えば疫病に罹る穢れた土。

 木を伐り、山を崩し、谷を埋める異形の亜人。


 今、〈彼女〉が見つめる中で、黒い煙を何度も稲光が迸る。


 それが、旧イヴァント王国領。現、魔族境界線以南。通称、魔界。


 黒く汚れ赤く悲鳴を上げている大地を見ると〈彼女〉の鼓動が不気味に、どくどくと鳴り出して止まらない。血が零れる指先のように、熱く脈打つ。この赤は、いずれこの美しい白と青と緑に囲まれた自分たちの世界すら、魔族の文化や文明に汚染されてしまうのではないか、と――


 ――激しい揺れで、漸くスラバドラ・マルカ・イヴァントは目を覚ました。自身の腹を、尖った肩が何度も突き刺す。よく揺れる視界の中で、しばらくぼうっとしていたスラバドラだったが、そうして漸く、自分が誰かの右肩に担がれて『運搬』されていると分かった。自分を担いでいる右肩と背中は、猛烈な勢いで走っている。ともすれば、これは誘拐であるとすら思えた。


「これは、ルダンか?」


 少女は自分を担ぐ背中に向かって訊ねた。確信はある。その背に見覚えのある剣の柄があった。そして何より、見慣れた真っ赤な髪が揺れている。三つ編みを軸に、女の騎士の象徴として複雑に編み込まれたそれを、スラバドラはいつも羨んでいた。


『姫にこれは不要ですから』


 髪型を真似したいとせがんでも、ついぞ叶えてもらったことはない。


「……目を覚まされましたか」


 激しい息切れのなかに、ルダンは言葉を含めた。


「ねえ、何が起きて……」


 スラバドラはすぐに口を押えた。周囲に蔓延した汚臭もそうだったが、なにより今、喋っている場合でないとすぐに悟ったからだ。ルダンは自分を担いで、全力疾走している。寝ている自分を、仕方なしに担いで運んでいるわけではない。そう、逃げている!


 周囲を見渡してすぐ、スラバドラはこの永遠の夕闇の中で、爛々と輝く無数の瞳を認識した。


 話には聞いたことがあったが、実物は初めて見る。今、この瓦礫の山を越えて正確に自分達を追いかけてくるもの、それが『魔族』だ。否、誤りである。初めてではない。つい最近見たことがあった。それは確か、森の中を、従者達と旅していた時だ。


「ご安心ください、姫。必ずこのルダンがお守りします」


 走るのに精一杯だろうに、ルダンはスラバドラへそう言った。何故、そんなことを言い出したのだろう。そう考えたとき、始めてスラバドラは、自分が知らぬ間にルダンの左肩を強く掴んでいることに気付いた――そう、自分は、恐怖しているのだ。なぜか?


 はっとして、スラバドラは改めて辺りを見た。そして、ぞっとする。王宮の親衛隊のうち、精鋭中の精鋭二十人が一緒だったはずなのに、今はルダンを除いて一人もいない。それどころか、自分は六名の侍女と一緒に、馬車に乗っていたはずなのだ。


 スラバドラは、漸く記憶がはっきりしてきて、そうしてやっと、全てを理解した。わたしは、わたし達は、旅の途中に魔族の襲撃にあったのだ。そして、もう親衛隊と会うことは叶わないだろう。きっと、唯一生き残ったのがこのルダン・バルルウだけなのだ。その間、自分はきっと、恐怖で気を失っていたに違いない。侍女のドリーもユディーもキャミーもいない。


 ——耳の内に、彼女らの悲鳴や、剣戟の音が蘇る。そして、魔界の汚臭に紛れて漂い出した血の臭いが彼女の脳を刺激した。そう、戦いがあった。


そして、揺れる視界の中、自分達を正確に追ってきている魔族達に改めて恐怖した。もし、ここでルダンが足を止めることがあれば。この歪んだアスファルトの上で転んだり、コンクリートの山を越えるのを諦めたりしたら。


 ——死ぬ。


 魔族とコミュニケーションをとれた人間は存在しない。だが、彼らは人間を見つけたら必ず殺す。だから、捕まりでもすれば、きっとゴブリンの爪で貫かれ、オークの粗悪な剣で切り裂かれるだろう。或いはトロールに力任せに引き千切られたり、ドラゴンの餌になったりするかもしれない。


「助けて……」


 自分でも驚くぐらい、か細い声がスラバドラから漏れた。すると、ルダンがよりその足を速めた。しまった、と思う。ルダンの体は当に限界を迎えているはずだ。それなのに、また急がせてはどうなるかわからない。


「姫、失敬!」


 しかして、そのときスラバドラにとって予想外のことが起きた。天地が返ったのである。天は地に伏し、地が天に登る。そして、捲れ上がったアスファルトの上に、スラバドラは優しく立った。ルダンの妙技、彼女がスラバドラを掴み、そのままそっと地面に投げ、置いたのである。その理由は、すぐに分かった。


 がん、とすさまじい衝撃音。スラバドラが振り返ると、鉄骨のはみ出たコンクリート片を、ルダン・バルルウが素手で受け止めていた。コンクリート片を握るのは、体長三メートルを超えるトロールだった。


 当然、受け止め続けるのは親衛隊の隊長であるルダンにもできない。あっさりとそれを受け流し、地を抉って飛び散るアスファルトと粉塵に紛れてスラバドラの手を引き、胸に抱いてトロールの股下を滑って抜け、前方回転受け身を取って立ち上がり、猛然と走りだした。さすがの身のこなし。遅れてスラバドラは内臓が転じたことに気づき、えづいた。


「今更ですが、口を押えてください。ここは魔族の町。そして、怪獣がいた場所です。汚染がひどい。ここの空気は草木どころか、魔族の建物すら溶かします」


 その言葉に、慌ててスラバドラは、コスモス山脈のように青く美しい外套の一部を引っ張って口に当てた。


「それから、目も、閉じてください」


「え?」


 その時、ルダンの足が止まった。そして、スラバドラの目が閉じられると同時に、再び地面を感じる。止まった、ということは。


 ――死ぬんだ。


 スラバドラは理解した。彼女は、齢にして七つだが、その聡明さは随一であった。トロールを前にした時ですら、ルダンはほんの一瞬、対手の攻撃を受け流すわずかな間しか停滞しなかった。それが、今、明確に足を止めたのだ。


 ルダンが、あの大剣を抜く音がした。スラバドラは獣の息遣いを暗黒の中で感じる。それは、彼女の首も足も指も頬も嘗め尽くすようであった。


 ――囲まれている。すぐ傍に、魔族がいる。


 ルダンのことは、信じている。だから、恐怖はない。だが、やっぱり歴然とした感覚が一つあった。


 ——わたしは、今日ここで死ぬのだ。


 ただ、姫=スラバドラ・マルカ・イヴァントは知らなかった。この時、彼女達を見つめる、四つの瞳があることに。それは、彼女にとって最も望むべき『魔女』だった。


「ジゴー、人間同士は、助け合いですよ」


 半壊した建物の中、それはぼそりと呪いを口にした。

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