第3話 厠と人助け

「無駄なことを」


 がちゃり。斜めに傾いたトイレの個室から、一人の少年が出てきた。ひび割れたタイルの上を歩き、手を洗うため蛇口を捻る。奇跡的に配管が繋がっているのか、水が噴き出た。それに手を当て、その冷たさをしばし楽しんだ後、締める。濡れた手を適当に服で拭いて、そうしてトイレを後にする。ドアを閉めた。ところが、丁寧に触れたつもりだったのに、その蝶番が外れてしまった。廊下に出た少年は思わず振り返り、改めてその『現代的な』男子トイレを見る。


 個室が四つとストール型のトイレが同じく四つ。当然水洗式だった。そちらの配管は駄目になっていたようだが。


「ジゴー、長いです」


 トレイの中をぼーっと見ていた彼へ、ずっと廊下で待っていたらしい、一人の少女が声を掛ける。彼女はやや頬を赤らめていて、視線を合わせないようにしながら、彼の真黒な外套と鞄を突き出した。彼は黙ってそれを羽織る。


「ごめん」


 彼は素直に謝った。


「ところで、あれは」


 そういって、やっぱりトイレの中を指す。少女はその中を見ない。だが、彼の言わんとしていることは理解していた。


「珍しいですが、人間と魔族が争っています、こんなところで」少女はそう言った。外から、激しい金属音がした。剣と剣、或いはコンクリート片がぶつかる音であろう。


「そうか」


 彼は浅く頷いて、そのまま廊下に出る。崩壊しかけの建物の中故、廊下も当然傾いている。二メートルの程の幅、床は薄い緑の絨毯。


「助けは、しないんですね」


「あいつも辛いだろうが、人間をわざわざ殺すのはちょっとな。大丈夫だ、相手はオークだから、死ぬときは苦しまずに死ぬ」


 ジゴーはため息をついた。少女は、はっとして彼を見上げる。


「屈折しています。彼らこそ、わたし達と同じ人間ではありませんか。助けるというのは楽にしてあげることではなく、命を救ってあげるということです」


「魔界に来てるんだから、どうせ死ぬ。否、人間なんだからどうせ死ぬし、そもそも永遠なんてのもなくって……」


「そういう話ではなくて!」少女は声を大きくした。


「どうせ死ぬものを助けるなんて意味がない。でも、早めることには意味がある。無駄な時間を過ごさなくて済む。あと、大変そうだし、辛いだろうから」


 彼はもう一度男子トイレの中、の窓の、外を見た。


 泥と真黒な油でぐちゃぐちゃになった地面の上を転がり、それでもなお、自身の身長より大きな剣を振り回す人間がいた。しかも、女。なおかつ、歳も大して変わらない少女。それを取り囲むのは、トロールとオークが合わせて七体。その周囲には九つもの魔族の死体があって、大健闘、といったところだった。


 だが、もう限界のはず。地面に膝を着きつつ、それでも剣を振り上げてトロールを牽制し、オークの蹴りを右から受けて、地面を跳ねる。おそらく、トロールの拳で砕け散るか、オークの蹴りを甘んじて受けるかの二択で、後者を選んだのだろう。まだ、無事でいられる方を選択したのだ。しかも、オークの蹴りは背負った鞘で受けていた。恐るべき生への執着だった。一体何がそうさせるのか……顔面を油で汚すことも厭わない。


 そして、素早く立ち上がる振りをして対手の攻撃のタイミングをずらし、背後から迫るオークには剣を向けて動きを制す。


 ……思ったよりも、死なないな、とジゴーは思った。


「ウトト、行こう。おれ達はこの基地に長居はできない」


「ですが、同じ人間です。恐れかれ早かれ死ぬとしても、見過ごす理由にはなりません」


 ウトトははっきりとそう言い放った。外套に隠れているが、長旅で鍛えられた彼女の体が真っ直ぐに伸びると、流石のジゴーも足を止めざるを得ない不思議な力を持っていた。


「助ける、べきです。ジゴー、人間同士は、助け合いですよ」


 そして、ウトトは声を深く落とし、ジゴーに迫った。


「いいですか、同じ人間として、です」そうして一歩前に出る。


「嫌だ」それを、ジゴーはあっさりと却下した。


「じゃあなんですか! わたし達が何らかの理由で魔族に追い詰められて死にそうになったとして、その傍を誰かが通っても、助けを求めないというのですか。見捨てて先を行く人を、呪わないと断言できますか!」


 ウトトはたまらず怒鳴った。


「仕方ないだろう。どうせ、最後には死ぬ。その前後や早い遅いに意味はない。やっと、とすら思う。おれは、助けられなくていい。いいか、仮に今、おれの目の前に千人の人が苦しんでいて、それをおれが指先一つで助けられたとしても、そいつらは百年もすれば全員死ぬ。どうだ、助けることに意味なんてない」


「ぎいいいいっ!」


 少女は言葉にできない悔しさに地団太を踏み、手に持つ杖で何度も床を突いた。傾斜した建物が揺れ、流石にジゴーの顔に不安が浮かんだ。三階建てで、中は会議室らしきものが詰まったこの建物。鉄筋コンクリートで出来ているため、そう簡単に崩れることはないだろうが、廃墟となって数日。すでに罅割れ傾いている以上、刺激はしたくない。


「わからずや! 同じ人間同士、助け合うという責務があるはずです! いいからついてきなさい!」


 ウトトはそう言って、一人床を蹴って駆けだした。


「おい待て!」


 ジゴーの声が虚しく廃墟に響く。仕方なしにジゴーも走り出した。


「いくら、先がわかっていようと、抵抗しない理由にはなりません。そうに決まっています」


 まるで自分に言い聞かせるようにウトトは唱えた。廊下を抜け、ロビーに出る。何かの受付をしていたらしいカウンターの前を素通りし、ひっくり返って散乱するソファの様な低い椅子を飛び越えて外に出た。


 そこには、先ほど見た通り、七人のオークに囲まれ、たった一人で剣を振るう少女がいた。

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