第4話 この女、相手を選ぶ魔女
外に飛び出した少女、ウトトが握る霊樹の枝で作った杖の上には、古代の言語で書かれた詩歌がびっしりと書かれている。そのうちの一節、火の誕生と、自身の内側から果てのない永遠の火傷を負い続ける女神の話が書かれた部分を、ウトトは走りながら、勢いよく指で擦った。
すると、杖から真っ黒な煙が上がって杖が燃え上がった。そうして濛々と登る黒煙を、引き摺るようにウトトは走っていたが、やがて煙は鞭のようにしなり、彼女を追い越して、オークと、そして彼らに剣を振るう少女の間に割って入った。
「邪悪なる呪いの眷属よ、光の民たるわれらムヤナの民が相手になろう!」
その突然の宣言に、魔族達も、そして剣の少女も振り返った。
「さあ、あなたは逃げなさい。ここはわたしが引き受けます。人間同士、助け合いですよ」
少女の驚き顔に、ウトトは笑顔で答えた。だが、相手の顔は強張ったままだった。
「ありがとう! すまないが、人を置いてきている! この礼はまたいつか!」
そういって相手はぼろぼろの外套を翻し、ウトトに背を向け走り出した。泥と油で汚れていたが、ユキヒョウの毛皮のケープが印象的であった。
「さて」
ウトトは改めて、目の前のオーク達を見る。
「逃げるなら今の内だぞ。そも、ここの空気はお前たちにとっても悪かろう」
しかして、止まるオーク達ではない。剣を改めて構えなおす彼らへ、ウトトはため息を一つ、そして紙切れを燃やし尽くす炎の様な早口で、次のように唱えた。
「われが呼ぶは 一つ、
語るは 大いなる伝承のその一遍、戦いの節より、
聞くところ 最後の炎、己をも焦がし煙の中へ下るるるるるる」
すると、十分にウトトの振りまいていた煙に囲まれ、或いは吸っていたオーク達は目を見開いてえずき出した。そして、その喉奥から火を噴き、首が裂けては炎を上げて、肺を焦がしてあっという間に燃え尽きた。
その様子を見るウトトの額にも汗が浮かんでいる。
「まあ、こんなものでしょう。しかし、人助けをした後は気分がいいですね」
そうして、気持ちよさそうに伸びをする。その時ふと、瓦礫の隙間から声がした。
「あの、敵はもう、いませんか?」
振り返ると、オークばかりに注視して気付かなかったが、小さな人影があった。幼い子供の声。折り重なった瓦礫の隙間に、相手はいた。歳は十も言っていないだろう。六、七歳ぐらいだろうか。両目を手で押さえているところが随分と可愛らしい。
「大丈夫ですよ。安心してください。あなたは、さっきの剣士さんのお友達ですか? おいてきてしまったという……」
剣士の姿は見えなくなったが、どうやら彼女の探し人はすぐ傍にいたようだ。
「はい。ルダンはわたしの騎士です」
そう言って、少女はゆっくりと瓦礫から身を出した。
「騎士?」
もしもこの時、瓦礫の奥の少女が先んじて目を開いていれば、橙色の魔女の、この世のものとは思えぬ憎悪に駆られた表情に気付き、身を守ることができたかもしれなかったが、これは空想である。そう、少女を迎えたのは、まるで別人。それは、まさに悪魔か、さもなければ今まさに子供を食らわんとする鬼の顔である。
「姫! そちらにおられましたか!」
さっき逃げていったはずの剣士が戻ってきた。
「姫? やはり、こいつ!」
剣士との距離、五十メートル。ウトトの動きに躊躇いはなかった。かっと開いた左手で、素早く〈姫〉の顔面を握り潰さんばかりに掴んだ。そして、残りの体を瓦礫の穴倉から引っ張り出す。
すると、目に鮮やかな青い外套と帽子が、魔界特有の赤い光の中に晒された。その色を、ウトトはよく知っていた。
「こいつ、やっぱりイヴァントの王族か!」
そう叫んだウトトの表情が、見る見るうちに笑顔に変わった。歯をぎらつかせ全身を揺らして笑い出した。彼女が笑んだ理由はほかでもない。掌中の子供の顔が、苦悶に歪んでいることを認めたからだ。
「まさか、魔族の地でこうして顔を合わそうとは愉快愉快!」
ウトトは歓喜に叫んだ。
「貴様、なにをしている! 手を離せ!」
そうして漸く事態を飲み込んだ騎士は、悲鳴にも似た声を上げ走り出す。
「われが呼ぶは 二つ、
語るは 大いなる伝承のその一遍、始まりの節より、
聞くところ 水の深きを超えて来り、山の高きを知らぬ」
いくらウトトが長旅で鍛えられているとはいえ、子供を片手で易々と持ち上げるのは難しい。だが、しゅるしゅると早口で呪文を宣えば、その指先には対手の頭蓋すら圧し砕くほどの力が宿った。ひょいと、そして高々と持ち上げる。いくら子供が抵抗しようと無駄であった。
「仇討ちだ、貴様の血でもって、わが一族積年の恨みを今晴らさん!」
「やめろ、例え恩人と雖も容赦はせんぞ!」剣士はその足を速め、ウトトへ接近する。それを、やや遅れてウトトは見た。彼女の顔には優越感に満ちていた。あの騎士の目の前で、王族の顔面を握り潰したら、さぞ楽しかろう。
「馬鹿め、そんなことをして、こいつの寿命が縮むだけ……」
ご。
そんな、余裕たっぷりに笑んでいたウトトの顔面に、剣士の大剣がめり込んだ。圧倒的な速度。それは、ウトトの想定を超えて一瞬で間合いを詰めていたのだ。幸いなのは、その大剣にはまともな刃がついていなかったこと。その剣は、王族を守るための『盾』として作られていたからだった。
故に、ウトトはそのにやけ面を真っ赤に染めて、子供を手放して地面を転がり、激痛に悲鳴を上げた。
「痛いいいいいいい!」
当然剣士はそんな間抜けに気を取られることなく〈姫〉に駆け寄り、その背をさすった。
「姫! 御無事ですか! 申し訳ございません。わたしが至らないばっかりに」
「よい。それよりも……」姫の目には涙が浮かんでいた。しかして、ただ真っすぐ、橙色の魔女を見つめる。それを察し、剣士は再び剣を振り上げる。
「こやつ、人の身で姫に手を出そうなどとは、反逆罪だ、今ここで叩き潰してくれる!」
一切の躊躇いなく、剣士は剣を振り下ろした。
「やめ……!」
慌てて上体を起こしたウトトだったが、すべてが手遅れだった。杖も手放していて、術など出ようもない。ウトトは涙の浮いた眼をきつく閉じた。
しかし、大剣がウトトを潰す直前、それよりも先に、女剣士の顎を穿つものがあった。それはごちん、と地面に落ちて跳ねる。拳より大きなコンクリートの塊であった。それが真っ直ぐ投げられて、剣士の顎にあたったのだ。〈姫〉がその元を辿ると、真黒な外套に身を包んだ少年に至った。
「くそ、だからやめろっていったのに」彼は姫でもなければ剣士でもなく、魔女をその瞼で潰さんとしているかのような形相で睨んでいた。ところが、彼を見ると、橙色の魔女の顔に笑顔が戻った。
「ふふふ。ジゴー、遅かったですね」
そして、ウトトは涙を拭いながら立ち上がった。得意げな彼女の顔に、ジゴーは深くため息をつく。
「なんで返り討ちにあって平気そうなんだ。自分で喧嘩吹っ掛けといて」
「見てたんですか」魔女の顔面が蒼白に染まる。その目には涙が戻っていた。
「見なくてもわかる」ジゴーはもう一度ため息をつく。
「それより、こいつはどうするんだ。そこの剣士は振舞からして護衛の騎士で、守られるってことは、その子供は王族だろう。外套の色も、王族にしか許されない青だ」
ジゴーは、こちらもまた涙目で地面に這いつくばっている子供を見た。子供は漸く、自分の騎士が気絶し、役に立たなくなっていることに気付いた。慣れない旅と彼女を抱えての全力疾走、そして大量の魔族を相手にした大立ち回りで限界だったのだろう。息はあるが、目覚めそうにはない。顎が少し腫れている。
「決まっている。相手は王族。殺す以外に何がある」
自分よりはるかに年下の相手に対し、圧倒的優越感を隠さずウトトは言う。大人げない、なんて言葉がジゴーの喉まで出かける。だが、そこまでにとどめた。口にすれば面倒なことになるからだ。
一方〈姫〉は、静かに辺りを見回し、自分を守るものが今度こそないことを認め、魔族に囲まれたときよりも強く、死を感じて目を閉じた。
「……どうぞ、好きになさいませ、魔女様」
姫はそう言って膝をついた。彼女の頭に再び、橙色の魔女の手指が掛かる。
——きっと、楽に潰してくださいましね。
自分の首を掴む掌に、だがしかし、姫は明確にその時、爪を立てた。
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