第44話 ■■■■の一生
ジゴー・エルギー、否、■■■■は常に自分の将来を見てきた。
『ほら、お前はああはなりたくないだろう』
それが父の口癖。彼の指す先には、駅やデパートのトイレを掃除する清掃員がいた。あとで分かったことだが、それは父の兄、■■■■からすると叔父にあたる男だと分かる。
『勉強すればいい。お母さんと同じ、いい大学に入りなさい』
それが■■■■の母の口癖。彼女は机に向かう■■■■へ鉛筆を握らせテキストを開き、指示を出す。母は有名な弁護士だった。いつも、有無を言わさぬ雰囲気で彼を机の端に追い立てた。
幸運と言えば、■■■■に、それを拒否するという選択肢がなかったこと、そして、不幸といえば、彼が勉強をしていい点を取れば両親は喜び、成果がなければまるで死人のような表情をして落胆したことだった。
『■■■■はどうしてそんなに勉強ばっかしてんの?』
『大学受験があるから』
周囲の問いにはいつもそう答えてきた。だが、真実は異なる。大学などどうでもよかった。
——おれは、家族のために勉強をしている。
彼の家族はただの一点、■■■■の大学入学という目標に支えられた、あまりにも儚いブロックの上に建設されていた。父も母も、それほど仲は良くない。家で顔を合わせても何かを親しげに話すこともなく、互いに背を向けている。彼は本能的に、自分が勉強を怠った瞬間、この家族があっさりと崩壊して瓦礫の下に沈むことを予感していた。
故に、彼は、両親のために勉強をした。自分がいい点を取れば、両親の明るい笑顔が見られる。家にいていいと思える。
そう、完遂すべきは大学受験。両親に囃されてか教師も巻き添えにして、周りの大人たちは皆、彼に勉強をさせる。彼の人生は、十九歳になったその時、母と同じ、否、それ以上の有名大学の門を潜ること。その一点に集約されていた。
学校が終われば塾へ、家に帰れば深夜まで机に向かう。勉強と成績を積み上げ、家族を安心させる。それが、彼の使命だったのだ。
しかし、ある日、全てが変わった。
それは本当に些細な出来事だった。塾の帰り道、ふと、交差点の横断歩道を渡っているとき。今まで気にしたことがなかった陸橋が目に入った。渡りかけの横断歩道と並行する車道を一跨ぎにするそれの上を、見知った顔の少年と少女が歩いていく。
本当に、たったそれだけだったのが、何を思ったのか、思っていたのか。彼にどこまでも真っ直ぐ突っ込んできた車があった。その時、自分の骨だのに管の内臓だのが弾ける音が、全身を波打ち反響していってもおかしくはなかったのだが、彼が聞いた音は全く違う。
――がらがらがらがら。
建物が崩れる音がした。だが、それはまるで積み木のように軽く、偽物の建物。派手に破裂する、見てくれだけの破壊、崩壊。遅れて、それが彼の『人生』だったと理解した。
それにしても、なんて嘘っぱちな建物が崩れる映像が浮かぶのだろう、と思ったが、そういえば生涯において、一度も建物が本当に崩れていく場所など見たことがない。偽物の崩壊のイメージ。だとして、そんなものどこで見たのだろう。
アスファルトの上、生暖かさと鉄の臭いの中、彼は思い出す。
これは、『化学怪獣ラジュード』だ。
『ちゃんと勉強しないと、こういう風になるぞ』
父のあまりにも馬鹿にした脅し文句。化学怪獣ラジュードは全長八十メートル体重四万トンの大怪獣だ。それが、ビルを蹴り飛ばし、尾で薙ぎ払うと、その下の人間たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。父は彼らをそう評した。
思えば、数少ない娯楽だった。怪獣映画を見せたのは父の気まぐれか、本気で踏み潰される人間になるな、という警告だったのか。今になってはわからない。だが、これだけはシリーズを通してみる機会があった。昔は、よく見ていたのだ。でも、勉強が家族を支えていると気付いたときから見なくなったのだ。
ただし、今、彼がその映画を思い出し、感じたのは一つだけ。
——なんで無意味だったんだ。
自分の努力が、何の意味もなかったという確信。どれだけ勉強しても、どれだけ耐えても、結局のところ、死んでしまっては意味がない。
体が圧力に負け、崩れ、落ちていく。今まで積み上げてきた、勉強、勉強、勉強、勉強。その全てが……その上に乗っていた、家族が。
ごめんなさい。全部無意味だったのです。今まで、僕に掛けてくれた時間、そのすべてはこうして終わってしまったのです。ごめんなさい、ごめんなさい。
「いっそのこと、最初から、なかったことにできればよかった」
それは、彼の口から、本当にそんな言葉が漏れたかどうかは定かでない。だが、彼は確かにそう口にしたという覚えがある。
そうすれば、両親だって『もっと幸せに暮らせたはずだ』
指先は血の気を失い青黒い血管が目立つばかりに変色している。否、待て、結局、父も母も行きつく先は『これ』だ。だとすると、幸せとは、生きるとはなんだ。
「否、無い」
■■■■は、その時、漸く理解した。今まで何かの上に『勉強』というブロックを積んできたつもりだったが、それすら、この世界にはなかったのだ。なんという茶番だろう。
その時、彼の枯れた指に熱が籠った。
「——壊したい」
踏みつけて。吐きつけて。薙ぎ払って。叩き潰して。こんな茶番に付き合わされた、己の、父の、母の愚かしさ! 否、皆が皆、馬鹿なのだ。
目の前に、町のミニチュアが広がっている。観客を感動させるために作られた、壊される前提の建物達。これらが壊された後は、どうなるのだろう。どこかに残してもらえることなんてほとんどなく、廃棄処分が決まっているに違いない。
これが、人の世なのである。全ては一瞬の出来事のために存在し、それが終わったら『何もない』のだ。
そう思うと、自分が積み上げてきたことの虚しさに、■■■■は震えた。全身の血液が沸騰しそうになる。だが、当然錯覚だ。それは泡立った血液とともに冷めていく――そのはずだった。
「そうだね、その通り! 君、いいこと言った! ナイス遺言! 言ってみるもんだね、君、採用! ウチで働きなよ! とりあえず監督任せるわ。はいこれ〈カチンコ〉!」
■女神特権発動→架想世界←鑑渉開始。権利買収、一部変更強制承認。ウルトラスポンサード完了。
「現場、監督はいりまーす! ……こんな感じでいいのかな? まあどうでもいいかあ」
……気のせいか。あまりにも最期に似合わぬ明るい女の声が、■■■■、否、ジゴー・エルギーの脳内で反響した。
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