第9話 ここから先が冒頭の続き


「早く離れてください。お願いですから」


 彼の言う通り、ジゴーを置いてひた走る。ルダンの先を走るウトトは、見かけによらず兎のように地面を跳ね、瓦礫の上を移動していく。否、きっと邪悪なまじないを使っているに違いない。まるで舟でも漕ぐように、彼女は杖を大いに振るっていた。


 ルダンも負けじと走っていたが、まるで距離は縮まらない。疲労もあったし、何よりスラを担いでいる。だが、そもそもこの瓦礫の上というのが難しい。小さくても五十センチ四方のコンクリートは、踏みつければ傾いてその衝撃を逸らすので、力が思うように入らないのだ。しかも、コンクリートの断面はなかなか鋭利で、すでに靴底も限界を迎えて穴が空いていた。尖った破片が、彼女の足の裏を何度も切り裂く。


「ジゴーはよかったのでしょうか」


 そんな声がルダンの外耳を撫でる。


「いいでしょう。彼は自分で残ったのです。それに、まじないを使うあの女と違って、あいつに何の力がありますか。いても無駄です。この先の姫の助けにはなりません。精々、時間稼ぎをしてもらいましょう」


「それは……」


 ルダンのつっけんどんな応対に、スラは黙った。しかし、とルダンは思い、振り返った。八十メートルほど走っただろうか。彼の姿はわからなかった。ここは崩れた建物が散乱しているため、高低差が激しかった。


「遅いですよ」


 そのとき、すぐ横から声がして、ルダンは思わず飛び退った。ウトトがいつの間にか真横にいた。彼女は実に難しい顔をしていた。悔しさ、怒り、面倒臭い……否、これは、やりたくないことを、仕方なく、でも、どうしてもか、やろうとしている顔だとルダンは思った。


「蹴ります」


 油断していた。はっと気づいたときには、ルダンの脇腹をウトトが両足で蹴りこんでいた。彼女の両手は深々と地に刺した杖にあって、手首、肘、肩、背骨、腰、膝、足首と、全身の力を爪先に込めて一撃必殺。超至近距離で放たれた両足蹴りは、ルダンがちょうど地面から浮いているタイミングで放たれたおかげで、驚くほど真横に、かつ遠くへ、十メートル以上すっ飛ばすことに成功した。そんな状態でなお、ルダンは姫を素早く抱き、背中から落ちて守る。


「何をす……」


 ルダンは吼えた。否、吼えようとした。だが、その時、違和感を覚えた。まるで、今、この瞬間というものが止まったような気がしたのだ。


『カアアアアット!』


 だが、そんなことなどあるはずもなく、背中は痛いし、姫の目には涙が浮かんでいる。視界の中のウトトはせっせと走り出していた。


 気のせいか、と思い直す。だが、やはり異変は起きていた。


『まもなく上映のお時間です。携帯電話、スマートフォンの電源を切り、夢溢れるすてきな映画の世界をお楽しみください』


「なんだこの声」「誰の声ですか」


 思わずぼやいたルダンの耳を、今度は鋭いブザー音が貫いた。彼女は初めて聞く、極めて不快な音であった。


〈怪獣壊演〉


 今度こそ、本物であった。だが、本物故にルダンは気づかない。ウトトと自分の間に空いていたはずの『間』すなわち、ついさっき、蹴り飛ばされる前に自分が立っていた場所に、真黒な壁があった。高さにして、六メートルほど。見下ろす様に、まるで降ってくるような高さであった。そして、左右は果てなく長い。無限に続く壁のように思った。そして何より、ただそこにあるだけなのに、伸し掛かってくるような圧もある。


「臭い……」


 スラは思わず、ルダンの胸の中で声を出し、鼻をつまんだ。それは、腐臭であり硫黄などの劇物のそれでもあったし、強い酸性の液体が放つそれでもあった。そして、二人は知らぬ、石油の臭いとも似ていた。とにもかくにも、まともな人間であれば、鼻がねじ曲がってもおかしくない。とはいえ、口で呼吸をしようものなら吐き気を催す。しかも、目まで痺れてくる気さえする。猛烈な刺激が撒き散らされている。その源は、ほかでもなく目の前の壁であった。


 壁は、そんな汚臭を放つ、強烈な液体を表面に持っていて、今まさにどろりどろろとコンクリートの瓦礫の上にそれを垂らしていた。


「なんなんだ、これは……」


 とはいえ、それは前からそこにあったような気もするし、或いは突然そこに現れたような違和感もあった。まるで、名画に突然書き込まれた子供の落書きの様な、冒涜すら覚える。


『それ』が目の前に現れて、二十四分の二十一秒。


二十四分の二十二秒。


二十四分の二十三秒。


二十四分の二十四秒。


『編集完了、っと』


 ただの一秒、しかし、その間、確かに『彼ら』は二十四倍に拡大された時間を浴びていたのだ。


「気をつけなさい」


 壁を挟んでウトトの声がした。すると、漸くルダンとスラは思い出した。目の前の壁は、降ってきたのだ!


 途端、大地が『壁』の重みに耐えかねて絶叫した。その震動、衝撃は積まれていた無数のコンクリートの塊、それこそ一つ一トン以上あるものすら、須らく空中へ打ち上げるほどの威力を持っていた。その巨大な力の波に飲み込まれ、ルダンはなす術もなく宙を舞った。突風に吹かれた落ち葉のようであった。


 そして、あっという間に再び尖ったコンクリートの上に身を打つ。さすがのルダンの意識も、今度こそぷつりと途切れた。


『ルダン、ルダン!』


 だがしかし、失ったのはわずか二十四分の百四十四秒。肩を揺すられ、加えて猛烈な悪臭で確かに彼女は覚醒した。だが、胸の中で泣き叫ぶスラの声はぼんやりとして聞こえない。衝撃と、その際の爆音で彼女の聴覚は狂い、きーんと甲高い耳鳴りが支配していた。


 体は、動かない。一時的な麻痺だった。スラを抱いたまま、指一本すらまともに動きそうにない。


それと、もう一つ。地面が振動していた。吹き飛ばされたとき程ではないが、麻痺した体でもわかるぐらいには揺れている。しかも、時を刻むように震えている。これが、彼女の内側から不安となって拡大する。今までずっと剣の腕を磨き、時には死を思うことすらあった彼女にとっても初めての経験だった。そうだ、とルダンは思う。まるで、巨大な生物の体内に入ったかのように錯覚していた。


 そんな中で、彼女の目は姫よりも、その遠く、黒い壁に向いていた。巻き上がったコンクリートの粉塵が霧のように邪魔をするが、それが動いていることに気付く。


 ——あれは、なんなのだ。


 ぬるぬると、しかして鼓動でも刻むように動いては止まり、動いては止まりを壁は繰り返している。芋虫が歩いているのに近い。驚くべきことだった。もしかしたら、この大きな黒い壁は、何者かに引かれて、運ばれているのかもしれない。


だが、それがふと、ついに終わった。壁の末端に来たらしい。つまり、この末端から逆に向かって壁を辿れば、この正体がわかるのではないか――


 ルダンは、痺れた体を何とか捩り、壁の正体を目に納めようとした。


 だが、それは、まるで理解できなかった。その壁は脈々と続いていた。堆く積もった瓦礫の山、三メートル程などとるに足らず、なんと、壁の高さには傾斜がついているようで、遠くなればなるほど、その高さを増している。その高さたるや、十メートル以上あったコンクリート製の魔族の建物などよりも高く、黒い壁は山のような形をしていることが知れた。ルダンはそれを、見上げなければならなかった。


その高さはどんどん高くなり、遠くを見渡すに十分だったコンクリートの建物の屋上など、山の膝ほどの高さにすら至っていなかった。とはいえ、まさか、山が移動しているとでもいうのだろうか。これだけ大きな壁が運ばれているなんてことがすでに荒唐無稽なのに、一体どういうことだろう。ルダンは首を傾げたい思いに駆られる。と、唐突に吹いた風が、茶色い雲の様な粉塵を飛ばし、ついにその正体を示した。


ちょうどそれが、蜥蜴のように耳まで裂けた顎を開いてくれたおかげで、漸くルダンは理解した。


 ——これは、怪獣だ。


 知っている。十年ほど前から、魔界にある日突然現れて、彼らの居住地を破壊しつくした謎の存在。その大きさは、五メートルほどのトロールを超え、二十メートル近い王宮の大きさや、遥か遠く、魔界の煙突すら凌ぐという。


 蜥蜴の様な顎と、馬にそっくりな長い首、立ち上がった時のドラゴンに似た姿だが、翼はなく。何よりも、彼らに敵対し、なおかつ微塵も傷つくことがない。それは、魔族達が有史以来、一度だけ用いたと言われる驚異の破壊大魔術〈オド〉すら跳ね返すと言われていた。


 魔族ではなく、古の詩文にもその記載はない。正体不明の怪物であり、あまりにも巨大な獣。


 イヴァント王国内外でも、それは怪獣と呼ばれていた。


「まさか、本当に遭遇できるなんて」


 遅れて回復したルダンの耳に、スラの感嘆すら込められた言葉が反響した。

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