第29話 忘れられた伝承
口伝というのは語りつぐ者がいなくなると忘れられてしまう。叔父や叔母はこの洞窟の場所どころか、その言い伝えじたいを知らないようだった。人魚と関連があるのだろうか? もしあるとしたら、戸の内の住人なら、もっと詳細に知っているかもしれない。しかし、ヨネはもう寝てしまったし、ほかの住人にはなおのこと聞けたものではない。
(そういえば、山陰地方って、
古代人の死生観として、黄泉への入口はわりとしばしば、そのへんにあったのか。底知れぬ深い洞窟に対して、異界へ通じていると思う人の感性は、古代も今も変わらないのかもしれない。それとも、そう考えざるを得ない不可思議な現象がこのあたりで多かったのか。
とにかく、図書館の本の続きを読んでみたが、どれも似たような話ばかりで新鮮味がなかった。最後の話は逆に
昔ながらの小さい文字がビッシリならんだ文章を読んでいるうちに眠気をもよおした。あわてて歯磨きして、座布団を敷きつめた上にごろ寝する。就寝前にあんな本を読んだからだろうか? 夢を見た。
聖王は暗闇に立っている。ゴツゴツした固い感触が足の下にあった。どうやら裸足らしい。冷たい湿った岩場だ。暗闇のあまりの深さに寒気がした。このまま進めば、闇に飲みこまれて戻ってこれなくなる。というより、すでに迷っているのかもしれない。あたりを見まわしても、四方八方ただ黒い闇があるばかりだ。粘着質を帯びて、まるで、それじたいが弾力のある生き物に見える。
——こっち。こっちよ。
何者かの声が聖王を呼んでいる。優しい女の声だ。
「どこ? どこにいるの?」
答えた自身の声を聞いておどろいた。変声前のボーイソプラノだ。たぶん、七つか八つの子ども。少年の自分はしかし疑問も持たず、声のするほうへ歩いていく。やがて、遠くがぼんやり明るくなった。丸く光が見える。
(そうか。トンネルだ。これ、前に戸の内にむかうトンネルに入ったときの……)
少年の聖王は光をめざし走っていく。やがて、目の前が青白く輝いた。陽光ではなかった。放射能を帯びた水を思わせる、どこか妖しい光に満ちて……。
*
目がさめたとき、聖王はビッショリ汗をかいていた。暑かったからではない。むしろ、肌寒い。日の光が縁側からサンサンと降りそそいでいる。朝が来た。
縁側からヨネが現れる。
「起きたかね。朝ご飯食べぇかね?」
「いただきます」
味噌汁と白ご飯、茄子と椎茸の煮物だけだ。いいかげん、肉が食いたい。とはいえ、厚意に甘んじている身の上なので贅沢はいえない。けっきょく、残さず食った。炊き立ての白飯のなんと美味いことか。
「いろいろと、ありがとうございました。お父さんは?」
畑には姿がない。
「そこにおるがね」
指さされて、ギョッとした。聖王のうしろで畳にゴロンとよこになっている。目を閉じて微動だにしないようすは完全に死体だ。一瞬、心臓がちぢみあがる。ヨネさん、よくこんな状況に毎朝耐えているものだ。何十年もたてば、なれるのだろうか。
「じゃあ、おれは行きます。あ、その前に一つだけ聞かせてください。このへんに不思議な洞窟がありますか? そこへ行くと死ぬとか言い伝えのある」
「さあ。わは知らんがね」
ヨネが知らないとなると、そうとう古い伝承なのだろう。戸の内でも、すでに誰も知らないのか……。
もう一度、頭をさげて、縁側から出ていこうとしたときだ。
「まあまあ。待ちないや。だいぶ人はへっちょうだども、そのまんま出ていったら、すぐに見つかぁがね」
「でも、行かないわけにはいきませんので」
「わが山に
「猫車……」
聖王の祖父母は畑仕事をしていなかったから、猫車を持っていなかった。でも、子どものころ、近所の人が奇妙な形の一輪の手押し車を使っているのは見たことがある。
「でも、ヨネさんには重いと思いますよ?」
「ネコならたいした重さだないが。いいけん。乗るだ。そうと、コレも持って行くだわ」
ラップに包んだおむすびを二つ渡された。なんでここまで親切にしてくれるのかわからない。最後の最後に裏切って聖王をさしだし、お金を受けとる気じゃないか、などと考えてしまう。
いわれるがまま猫車に乗り、丸くなってよこになる。上から
(疑って悪かったな。やっぱり親切心からだったんだ)
そう思っていたやさきだ。前方から男の声がした。
「あれ? 塩屋のばあさん。あんた、ネコなんか持って、何しちょう?」
マズイ。怪しまれて調べられたら、見つかってしまう。
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