人魚は嗤う

涼森巳王(東堂薫)

一章 なつかしき海の町

第1話 ある夏休み



 おにいちゃん。こっち。こっち。ねえ、おにいちゃん。早く来て。あんじゅ、待ってるよ——



 幼いころの妹の夢を見た。少女の声を聞いた気がして、目をあけるとバスのなかだった。母方の里へむかう車中。居眠りしていたのだ。


 大学生最後の夏休み。本来ならアルバイトにあけくれているはずだ。幸いにして内定はすでに三社からもらっているので、あとは卒業旅行の資金をためるくらいが冬までに課された使命——のはずだった。


 山道をうねりながら走る路線バスの車窓から、まぶしく輝く青葉をながめ、正木聖王まさきせおは思わずもれそうになる嘆息を抑える。世界は自分の気持ちになど無頓着だ。こんなにも明るい。


 幼いころにも乗ったバス。あのときは母と妹の三人だった。でも、今、その妹は行方が知れない。これから行く親戚の家に数年ぶりに遊びに行ったきり帰ってこない。夏祭りの夜に従姉妹とはぐれて、神隠しにあってしまった。


(神隠し……)


 まさか現代令和で、誰も本気でそう信じているわけではない。神社のある地区は海の近くだから、夜の浜辺を散歩して波にさらわれたのだろうというのが地元警察の考えだ。


 だが、聖王はそれに賛成できない。妹の杏樹あんじゅは泳げないのだ。それも根っからの怖がりだった。夜の暗い海になんて近よるはずがない。むしろ、帰りの山道で迷って助けを待っているんじゃないか。そう思っている。


 母は一昨日までずっと杏樹の捜索のためにこっちへ来ていたが、疲労で倒れてしまった。いったん東京へ帰り静養している。父も単身赴任さきから戻ろうと言っているが、どっちみちお盆までは連休がとれない。だから、聖王がバイトの予定をすべて破棄して、かけつけてきたというわけだ。ほんとはもっと早く来たかった。しかし、母の実家といっても、すでに祖父母は亡くなっているし、聖王にとってはなじみがない家だ。母と二人も寝泊まりさせてもらうのは迷惑だろうと遠慮していた。ちなみに、町内に宿泊施設はない。


 母の実家へ行くのは小六以来だ。中高はバスケット部で忙しかったし、遠い親戚より同じ学校の友達と遊ぶほうが楽しかった。ただ、子どものころに泳いだ海だけはなつかしかった。


 海といえば、海水浴場の砂浜を思いうかべる人がほとんどだろう。でも、母の地元のその海は岩場の海岸で、いきなり深い。岩礁がんしょうの作る潮だまりで、子どもはポチャポチャ遊ぶのが定番だった。色あざやかなイソギンチャクや、フジツボがびっしり張りつき、やけにグリーンの濃い海藻のあいまを小さな魚が泳いでいた。手に乗りそうなタコが墨を吐きながら逃げていったり。

 海といえば、キラキラした思い出の宝石箱だ。


 とはいえ、今回は海水浴どころではない。なんとしてでも、杏樹を探しださなければ。

 聖王が心配しているのは、こんな田舎にも悪い男はいるだろうという事実だ。杏樹はとても可愛い女の子だ。生まれつきの茶髪で色が白く、ハーフみたいな顔立ち。変な連中に目をつけられて、ひとけない場所につれさられ……なんて最悪の事態にだけはなっていてほしくない。


 陰鬱いんうつな物思いに沈むうち、路線バスはトンネルをぬける。閉めきりでクーラーのきいた車内だから感じるはずもないのだが、なんとなく潮の香りをかいだ気がした。日本の海岸線というのは海と山のせめぎあいだ。海辺のすぐそばまで山肌が迫っている。このバスもトンネル一本ぬけると、水平線が見えた。手前には家々がところせましと建ちならんでいる。母の実家がある二津野ふたつの町だ。遠目に見ても昭和風の家屋の多く残る昔ながらの漁師町である。もっとも、漁を本業で生計を立てているのは、今ではごく一部らしい。ほとんどの大人はふもとの町へ働きに出かけていると母から聞いた。夏の解禁のあいだだけ栄螺さざえあわびをとるなど、多くは副職だ。そういえば、昔は真冬の寒いあいだ、家計のために女たちが岩場へ海苔つみに出たと祖母から聞いた。とてもツライ作業だったと。それも今はしないのだろう。むしろ、ファミリーレストランで給仕のバイトをしているほうが、ずっと実入りがいい。


 気のせいか、バスが二津野町に入ったとたん、あれほど輝いていた夏日が急にスッと陰を帯びた……気がする。それは杏樹を思う兄としての危惧からか? いや、違う。たしかに影が濃い。なんだろうか? このふんいき。単に日差しが山影によって隠れるだけか?


 真夏。盛夏だ。冷房中のバスをおりると、すぐに汗がじわじわと吹きだしてくる。なのに、妙に肌寒いような感覚におちいった。視覚的な寒さとでもいうのだろうか……。


 内心、ここに来たのは間違いだったかと悔やんだ。が、そんな弱音など吐いていられない。杏樹を見つけるんだと決意を新たにする。あるいは変質者にさらわれて監禁されているかもしれない。だとしたら、妹は今もどこかで助けを待っている。今度こそ守らなければ。杏樹には借りがある。


 バス停はトンネルをぬけた急坂の下にあった。さびたトタン屋根に穴のあいた壁板。時刻表は薄れて読めない。こんな状態だが、このへんの人たちには大切な足なのだろう。何人かそこで降りた。


 親戚の家はその道をまっすぐ進んだところだ。距離はそこそこあるが、迷う心配はなかった。五分も歩くと、記憶のままの昭和建築がある。違うのは、昔は庭に置かれていた漁船がなくなっている。先年、祖父がみまかったので、今ではこの家で漁師をする者はいなくなった。


 コンクリートの塀に門はなく、車一台ぶんのスペースから、誰でも玄関まで入っていける。マスコミの姿がまったく見えないのは、女子高生の失踪などめずらしくないせいか。杏樹は聖王の四つ下。高校三年生だ。まんざら子どもとばかりも言えない。世間にはただの家出と思われているのだろう。


 引き戸の玄関で呼び鈴を押すと、ずいぶん白髪の目立つおばさんが出てきた。一瞬、家を間違えたかと思ったが、叔母だ。正確にいえば、母の弟の嫁。若いころしか知らなかったから、誰だかわからなかった。が、よくよく見れば昔の面影はある。


「あら、聖ちゃん? 大きくなって。すっかり大人だねぇ。わからんだったわぁ」

「あの、お世話になります。これ、どうぞ」


 東京バナナの紙袋を渡すと、叔母さんは笑った。たしか、里美さんだったか。迷惑ではあるだろうが、おもてには出さない。歓待してくれているように見えてホッとした。


 だが、そう思った瞬間だ。廊下をよこぎっていく少女ににらまれた。前言撤回だ。歓待されていない。やはり、この家に来るべきではなかったか。以前にも聖王が迷惑かけたことを、まだ根に持っているのかもしれない。

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