第26話 戻ってきた父



 老婆は続ける。

「遺体がないまま葬式を終えて、家族が途方に暮れちょうときだった。夜中に外から戸をたたくもんがおってな。風の音だわなんだわ、じいちゃん、ばあちゃんは起きてくれんだった。姉ちゃんだけが『じゃあ、いっしょに行かや』てて、いってごして、二人で手つないで玄関まで行ってみたわね。月の明るい夜でな。引き戸のガラス越しに人影が見えた。戸にしがみついて、ガタガタゆらすようすが、ふつうじゃないけんな。そうだけで生きちょうもんだないとわかったわ。そうに、着ちょう服に見おぼえあったが。お父ちゃんが最後に漁に出たとき着ちょったジャンバーだった。姉ちゃんはいけんといったけど、わは『お父ちゃんが帰ってきた!』てて大喜びでな。引き戸をあけたわね。もうひとめ見て腰ぬかしてしまっただども」

 それはまあ、父だと思っていたものがアレでは、子どもなら泣きだすだろう。

「そうでも、わが泣くと頭なでてごしてねぇ。ああ、やっぱりお父ちゃんだと嬉しくなったもんだわ。だども、死人が帰ってきたけんね。近所はそりゃもう大さわぎだわね。でも、もっと荒れると思っちょったに、大人やつの話題はそのことじゃなかった。ニエをどげするかだわ」

「なんでですか? 死んだ人が戻ってくれば、みんな、あわてふためくはずですよね?」

 老婆はふくんだような目で笑う。

「この町じゃ、死人が戻ってくるのは、ようああことだけん」

「死人が……戻ってくる?」

 しかも、それがよくある? ありえない。だが、神社で見た妙な集団、ヨネの父親、それにさっきのも、見ためはハッキリ死人だった。


(もしかして……?)


 まさかと思うが、それしか考えられない。すでに何度もその姿を見ているのだから。

「……それが、人魚なんですね? 人魚っていうのは死人なんだ」

「こまかにいうと海で死んだ人間だわね」

 海で死んだ人間が帰ってくる……死んだときの姿のままで。夢みたいな話だ。強烈な悪夢ではあるが。海で亡くなる人間は、たった一年でもかなりいるだろう。全世界で見たらそれこそ何万人と。日本だけでも年間数百人。それでも、死体が歩いて戻ってくるのは、ゆいいつ、この町、戸の内だけだ。


(そういえば、死人が戻ってくる話、遠野物語にあったな)


 民俗学者の柳田國男が東北をまわって、その土地土地の老人から聞き集めた古い話。妖怪やオカルトめいたものが多い。有名なのは座敷童子や河童だが、死んだ人間が埋葬後、家に戻ってくる話もいくつかある。しかも一度や二度ではなく、何度もくりかえし、毎夜。それが何年も続いたなんて話まで。なんだか、その状況に似ている。

 遠野物語の死者戻りは、おそらく、医学が未発達だったころ、仮死状態でまだ生きている人を死亡と診断したせいだろう。当時はまだ場所によっては土葬だ。遠野では火葬の日を嫌う山神があって、火葬を禁じていた地域がある。生きたまま土に埋められ、墓場から這いだしたのだ。仮死になったとき、脳に酸欠による損傷を受け、性格が変わり、記憶もあいまいになっていたに違いない。場合によっては手足の末端が壊死していたかもしれない。まわりから見れば、それはまぎれもないゾンビだ。そのころ、もし、この概念が一般的だったなら、誰もがソレだと思ったはず。歩く死体。ゾンビだと。

 だが、戸の内の現象は、それとも違う。ただの仮死状態なら、ヨネの父親が今も四十代にしか見えないことの説明がつかない。しかも、さっき、聖王の目の前で消えた。遠野の死者は消えたりはしなかったようだ。生きているもののようにその体にふれることができ、獣のようにとびはねたり、乱暴なふるまいをしたという。仮死の誤診で説明がつく。だが、ヨネの父はそうではない。氷柱がくずれるように溶けた。あれはいったい、なんだったのか?


 闇のなかでぼんやり光る『お父さん』を見ていると、ヨネはまた口をひらいた。

「お父ちゃんが亡くなった次の年は、うちがニエの当番だった。だども、海で死んだお父ちゃんが人魚になって戻ってきたけん、もうニエ出いたも同じだいうことになって、翌年の祭りはニエなしですましてごさいた。働き手が二親ともおらんやになったわやつが哀れだっただわね。よくよくの措置だわ。今の人やつは当時の事情知らんけんな。あそこは当番にニエ出さんだったてて、村八分みたいなもんだ。お父ちゃんが見たかったら、イジメらいけん。そうでも、姉さんは中学出てすぐ都会に働きに行きて、そっちで結婚して孫子もできて、幸せに暮らいちょう。お父ちゃんのおかげだわ。わは戻ってくるお父ちゃん、ほっとかれんけん、嫁には行かんだった。わが死んだら、お父ちゃんの面倒見い人がおらんやになぁが、どげしたもんか」

 じっさいに目の前にがいて、奇行をくりかえす姿を見ながら聞く老婆の語りは、数十年ぶんの重みがあった。


 それにしても、まだまだ気になることがある。神社がニエを祀るためのものなら、まず、なんのために、何に対してニエをさしだしているのか? 人魚とはなんなのか?

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