五章 伝承語り

第25話 老婆の語り



 老婆は名を柳川ヨネといった。この年代にしても古くさい明治みたいな名前が子どものころはイヤでしかたなかった。

 自分の町が特殊だと知ったのは、小学校にあがったときだ。校舎は山の上にあり、周辺の五つの集落から子どもが集まっていた。それでも一学年が三、四人。多くて十人という過疎地域だ。すぐに仲よくなるのだが、そのとき決まって、どの集落から来ているのか聞かれる。戸の内だよと答えると、みんな、口をつぐんだ。急に離れていき、それっきり話してもらえなくなる。悪さをされるわけではなく、あからさまにさけられるのだ。奇異の目で見られることも多かった。

 小学三年生のとき、親が離婚して地元に帰ってきたのだという女の子が転校してきた。都会から来た彼女はこのへんの伝承なんて知らないから、ヨネにもふつうに話しかけてきた。ところが、ある日、ほかの子たちから何やらふきこまれたらしく、神妙な顔でたずねてきた。

「ねえ、よっちゃん。戸の内には人魚がいるってほんと?」

 すぐには答えられなかった。人魚なんていない。そんなの迷信だといっても、誰も信じてくれないのだ。ほんとに人魚なんていない。少なくとも、当時のヨネはそう思っていた。アンデルセン童話の『人魚姫』は、ヨネにとっても好きな物語だった。金髪に青い瞳。下半身が魚のようになった美しい人魚姫。人間の王子様を愛したばっかりに海の泡となって消えてしまう。そういえば、地元にも似たような伝説があるが、それはただの物語であって現実ではない……と。


 うちに帰ってから、父に聞いてみた。

「戸の内には人魚がおるの? ねぇ、お父ちゃん。みんながヨネのこと無視するよ」

 父は何もいわず、ただヨネの頭をなでた。その顔に浮かぶのは少しさみしげな笑みだった。

 そのすぐあとだった。台風がひんぱつする時期。サザエの解禁日がまもなく終わってしまう。当時はまだ漁業と副職の米作りで暮らしている者も多く、漁師町にとってこの時期は一番の稼ぎどきなのだ。朝から空はよどんでいたが、台風の予報は東へそれていた。ヨネは幼いころに母を亡くしていたため、家族は祖父母と父、二つ年上の姉しかいなかった。いつもなら台風前に漁に出る父ではなかった。だが、この日にかぎって出ていったのには理由があったのだと、今ならわかる。


「じいちゃんとお父ちゃんが夜中に話しちょうのが聞こえてね。『来年は当番だが、どげする? わか、ばあさんが行くだか? 年よりじゃ、あんまいい顔されんが、ミキやヨネを出すわけにいかんだろう。かわいそうなわ』そういうのは、じいちゃんだった。『いんや。来年までにはなんとかするけん』って、お父ちゃんはいったども、それがニエの当番だとわかったのは大人になってからだわ。お父ちゃんはたくさん金をためて、ニエしろを買うつもりだっただないか」

「ニエ代?」

「ニエの身代わりだわね。めったにないことだども、そのへんに迷いこんできたよそもんをとらまえて、ニエの代わりにさしだすだ」

 聞いていた聖王はヨネの言葉が身にしみた。まさに、たったいま、自分のおちいっている現状だ。町内じゅうの人間が夜どおし追いかけてくる。それは、よそものの聖王をニエ代にするためだ。


「そもそも、ニエっていうのはなんですか? 祭りの日に神社の魚女にささげる人身御供……ってことですか?」

 さきまわりしてたずねると、ヨネは一瞬、ちゅうちょする。

「まあ、そういってもいいかねぇ」

「違うんですか?」

 てっきり、そうだと思っていた。海で溺れていた海根を助けた万作は、夜な夜な出かけていく女房のあとを追い、その正体が人魚であると知ってしまったのだろうと。そして、人魚は海に帰り、その後、かげながら万作を助けて、漁へ出るたびに魚をたくさん、さずけてくれたのだと。たしか、魚女神社の縁起にもそう書かれていた。

 でも今、ヨネが語るのは別の話だ。

「うめさんはニエの一人にすぎん。人魚はもっともっと古くからおる」

「どのくらいですか?」

「さあ。わも学者じゃないけんね。そこまでは知らんが。じいちゃんやつの話だと、ずっとずっと昔、このへんに人が住みだしたころには、もうおったらしいがね」

「じゃあ、ニエは神社にささげてるわけじゃなく、むしろ、ニエにされた人たちの御霊を祀るために建てられたんですね?」

 ニワトリがさきか。卵がさきか。

「わが十のときだった。お父ちゃんは漁に出て、それきり帰ってこらんだった。遺体もあがらんで、船だけ見つかったが、そのまま、ほんに帰ってこらんだったほうがよかったかもしれんね」

 そういうヨネの視線は窓の外へと流れる。そこにはまだバッタとたわむれるヨネの父の姿があった。

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