第37話 妹



 誰が見てもひじょうに可愛いと断言する容姿の、十五、六歳の少女。金魚の浴衣を着て、ちょっと疲れた顔はしているが、ケガもなく、まずはぶじといえる。しかし、聖王の知らない女の子だ。杏樹ではない。


「聖王! あなたまで捕まってたの?」

「母さん……」

 うろたえる母が泣きながら、こっちへ走ってこようとする。が、芦原に肩を押さえられた。この会話を聞いて、聖王をつれてきた炭屋は喜色満面だ。

「ほんのこと、あんたんとこの息子だっただね。五百万で返すけん、払ってもらええか?」

「炭屋かね。ジャマさんでごせ。まずは、こっちがさきなけんな」と、杏樹を交換しようとしていた男が口をはさむ。

「ジャマはさんわね。わも同額で交渉しちょうだけだがね」

「まあ、あんたんとこはあとでゆっくり話すだ。たしかに五百万だね。商談成立だ。娘は返いたよ。団長さん。わかっちょうと思うが、くれぐれも内密にしてごしない。外にバレたら、あんたやつも困ぁでしょう」

 ぶあつい封筒を手に男は去っていく。聖王は黙っていられなかった。

「母さん! 違うだろ? それ、誰だよ? 杏樹は? 杏樹はどこなんだよ?」

 母の顔が悲しげになり、妹だと称する少女は泣きだした。

「お兄ちゃん。やっぱり、わたしのこと嫌いなんだね。探しに来てくれたって聞いたから、ちょっとは心配してくれたのかなって思ってたのに……」

 この女の子は何を言っているんだろうか? それに、母はなぜ、見ず知らずの少女を娘だなんていって、みすみす五百万も渡したのか? たしかに聖王の家は困窮しているわけではない。父はそこそこいい会社の管理職だし、母は教職員免許を持っているので、結婚前は教師だった。今は私塾の講師だ。週三日だけ働いている。自宅は父の実家。家賃がかからない。たぶんだが、数千万の貯金はあるだろう。それでも、五百万はポイとすてられる金額ではない。


「母さん。もしかして、もう杏樹は殺されてるの? だから、代わりの子をもらうつもり?」

「この子は蘭樹らんじゅよ。あなたの妹だっていってるでしょ?」

「意味わからん。杏樹はまだこの町のなかなんだな? そうなんだな? わかったよ。もう頼らない。おれ一人で探すから」

「聖王! 杏樹はもう死んだのよ!」

 母の悲痛な叫び声を背中に聞きつつ、聖王は走りだした。炭屋に体あたりしてつきとばすと、山のなかへ入っていく。とりあえず身を隠し、もう一度、戸の内へ侵入するのだ。


「聖王! 杏樹は戻ってこないの。十五年前に死んだの!」


 母は何をいっているのだろう? あんな見たこともない子を娘だなんていうし、頭がどうかしてしまったのだろうか? ほんとの娘が今このときも危険にさらされてるかもしれないのに、どうでもいいのか?

(杏樹はおれが助けるんだ。必ず、今度こそ)

 いつも聖王のあとを追いかけてきた可愛い女の子。横断歩道の信号が赤に変わって……いや、それともプールで溺れたんだったか? 変質者にさらわれそうになって……?

 なんだろう? 頭の奥がガンガンする。たまに起こる強度の頭痛だ。脳みその芯のほうから、ある光景が浮かんでくる。ブクブクと泡のように。暗い夜の海からわきあがる。夜光虫。波間にただよう。



 ——おにいちゃん。待って。どこ行くの? 杏樹も行く。


 ——ダメだよ。あそこは子どもは行っちゃいけないんだ。


 ——おにいちゃんだって子どもだもん!


 ——お兄ちゃんはお兄ちゃんだからいいんだよ。アンはもう帰るんだ!


 ——やだぁ。待ってよぉ。


 ——追いかけてきたら絶交だからな。


 ——おにいちゃーん……。



 追いかけてくる小さな手をふりきって、暗いトンネルへ入っていった。いや、夢だ。これは夢。、杏樹はお昼寝ちゅうだった。だからこそ、こっそりぬけだして、大人が行ってはいけないというトンネルへ冒険に……。


 いつのまにか、気を失っていた。でも、たぶん、ほんの一時だ。山のなかでガサガサと人の歩きまわる音がする。

「おーい。聖王くん。戻ってこい! 帰るなら今しかないぞ。これが決裂したら、わじゃ話にならんけんな」

「聖王、帰ってきて! お母さんが悪かったから。杏樹が死んだのはあなたのせいじゃないの。あのときはお母さんもショックで、強く叱ってしまったけど——」

 母と芦原だ。それに、炭屋もきっと探している。このままじゃ追いつかれる。聖王は木陰づたいに県道をくだっていった。うまいぐあいに死角になったカーブにさしかかったところでアスファルトの車道をよこぎり、戸の内への階段をかけおりる。両手を縛られたままだ。でも、荷造り紐だ。バックのなかにカッターがあるから、あとで切断できる。

 最初の建物を見かけると、茂みに身を隠した。県道の下は法面のりめんにそって林になっている。そのなかにひそんで、デイパックをおろすと、カッターをとりだした。片手で刃をひきだし、両手のあいだにその刃が行くよう調整して口にくわえる。手のほうを動かして紐を切っていく。ときどき手に刺さったがかまってられない。血を流しつつ、どうにか断ち切った。


「杏樹を……見つけないと」


 探すあてはない。どこかに捕まっているのか。それとも、聖王のように逃げまわり、さまよっているのか?

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