七章 幻の妹

第36話 交渉



 聖王の目の前で、心の首が宙を舞い、ころりと土間に落ちた。まだすわったままの姿勢の体からは、切断面から噴水のように血が噴きだしている。

「ああ、こりゃいけん。家が汚れぇわ」

 男が大あわてで首にかけたタオルをかぶせるさまが妙に滑稽で、かえって、その残虐性をうかがわせた。この集落の人間にとって、よそ者の命は壁の汚れよりずっとかるい。

「あんた、なんで心を。心はちゃんと身代わりをつれてきたろ? それも三人も。おれを入れたら四人だ」

「ニエ代はなんぼあってもいいがね。そうに、これの弟なんか、とうの昔にニエになっちょう」

「……」

 もともと約束を守る気などなかったのだ。踊らされた心がむしろ哀れだ。憤りを感じる。が、縛られた現状では、自分の命を守ることすら危うい。そう思うと反論もできなかった。


「……おれも殺すのか?」

 たずねると、男は首をかしげた。

「あんちゃんはイケメンだけんなぁ。生きたままあげたら、うめさんが喜ぶわ。あんた、もしかしたら、人魚になれぇかもしれんよ。そげしたら、何百年でも生きれぇけん、幸せなが」

 バッタを本能のままで追いかけ、むさぼり食う、あんなものになって幸せなはずがない。嫌悪感しかないが、しかし、今の返答で、とりあえず殺される心配はないとわかった。一年後か二年後かわからないが、祭りの日まで生かされるようだ。ここはへたに抵抗するより、すきを見て逃げだしたほうがいいだろう。と、思ったやさき、男は四畳半へあがってきて斧をふりあげる。

「わあッ、何する気だ?」

「逃げられんやに足切っとかんと」

「そんなことしなくても逃げないよ。縛られてるだろ!」


 しかし、男の目を見れば、やめる気はなさそうだ。迷っているのは、畳が汚れる心配をしているからだろう。敷くものを探すようにキョロキョロする。おかげで助かった。ちょうどそのとき、聖王の電話が鳴ったのだ。

「電話、出させてくれ。親だったら、身代金払ってくれるよう頼むから!」

 前に芦原にいわれた金でなんとかなるという話を思いだし、とっさに口走る。すると、思いがけず成功した。

「金か。なんぼぐらい出せぇや?」

「親の貯金額なんて知らないけど、二、三百万は」

「三百かぁ……」

 意外にも乗り気だ。この家はまだとうぶん、ニエの当番がまわってこないのだろう。前に高木親子は百万で聖王たちを売り渡そうとしていたから、相場はそのくらい。それより高く取り引きできるならと、欲をかいたに違いない。さらにラッキーなことに、縛られてはいたがうしろ手ではなかったので、ポケットからスマホを出した。芦原からの電話だ。

「ほら、二津野町の青年団の芦原さんだ。出ていいだろ? うち、二津野の親戚なんだよ」

「なんだぁ? 外のもんか」

 男は斧をおろす。外の者なら完全なよそ者と違って、ニエの秘密がバレる心配もない。それより金が重要とふんだのだ。安堵で力がぬける。両手を縛られたまま半身を起こし、聖王は電話に出た。

「聖王くん。今どこだ? 捕まってないよな?」

「捕まってる。たったいま、身代金でなんとか帰してもらえないか交渉してたとこ」

「じゃあ、もう帰ってこい。杏樹ちゃん、返してもらええことになったよ」

「えっ?」

「お母さんが五百万用意して、こっちについたとこだ。今から車で出ぇけん、トンネルのとこで引き渡してもらええことに話がついた。わもいっしょに行くわ」

「ほんとに?」

「中学のとき友達になった戸の内の子の家に軟禁されちょった」

 あまりの急展開にひょうしぬけだ。杏樹がぶじに帰ってくる。金で解決した。なんていう幸運だろう。その旨を目の前の男にも話す。電話の会話もいくらか聞こえていただろう。

「五百万……」

「うちには、おれのぶんも同額払うゆとりはあると思う。なくても、おれが働いて、なんとか数年で貯めるから」

「五百万ならいいだないか。土間をシャレたキッチンに改築できぃな。床暖房がいいわ」

「二津野との境にあるトンネルの前までつれていってくれ。もう車で出発するっていってたから、急がないとまにあわない」

「ほんなら、来るだ」

 両手は縛られたまま、デイパックを手に外へ出ていく。ころがった心の生首がどこかさみしげだった。


(おまえのことは恨んでないよ。弟のために必死だったのにな)


 歩いていくと、道々、集落の人たちが集まってくる。

「炭屋。あんた、それ、捕まえたか?」

「昨日から探しちょったヤツでしょう? 高木が逃がしたっていう」

「もう捕まったかぁ。せっかく早退して帰ってきたに」

「しょうがないわ。こればっかは早い者勝ちだけん」

 彼らの会話を聞いて、聖王はもう一つの利点にも気づいた。聖王が捕まり、その所有者が決まった。つまり、もう聖王を追いかける人たちがいなくなる。もっとも、杏樹が見つかったのだから、この町を探しまわる必要はなくなったのだが。


 坂道をのぼっていき、ジグザグの細い階段をあがる。県道も徒歩移動だ。トンネルまではそう遠くない。西日が傾きかけている。心になぐられたあと、数時間気絶していたらしい。

(よかった。杏樹。ぶじだった。ほんとによかった。五百万ずつ二人で一千万……母さんたちには申しわけないけど、働いて返そう。杏樹さえ戻ってくれば、それでいい)

 嬉しさのあまり、歩きながら涙がこみあげてくる。

(杏樹は子どものころ……プールで。おれについてきて、溺れたんだ。監視員が助けてくれたけど、へたしたら死んでた。だから、今度こそ守ると……)


 トンネルが見えてきた。路肩に軽自動車が停車し、芦原と母が立っている。その前には、今まさにひきわたされようとする妹と、金を受けとる男がいた。

「杏樹!」

 思わず走りよろうとした聖王は、ふりかえった妹を見て愕然とした。金魚の浴衣を着た女の子。たしかに美少女だ。アイドルになってもおかしくない。だが……だが、これは誰だ? 

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