第16話 禁域の夜



 早く起きないと。このままじゃ、殺されてしまう。やっぱり、この地区の人間はおかしいんだ。人魚を育てて食べてるのかも? 不老長寿を得るために? きっとそうだ。今どき、ふつうの人なら食べない食用ガエルだとか、生贄だとか、みんなそのためのエサなんだ——


 必死に体を動かそうともがく。だが、暗い泥沼のなかをズブズブともぐっていく。沈む一方だ。どっぷりと頭までつかっても、まだ落ちる。闇の底の底。深海の岩礁まで落ちたところで、やっととまった。それでも動けないので、うなっていると、目の前の黒い岩のかたまりから、何かが這いだしてきた。ウツボのようだ。うねりながら近づいてくる。目の前までそれが迫ってきたとき、聖王はイヤな予感にかられた。


(もしかして、コイツ、おれを食おうとしてないか?)


 まちがいない。動けない人間はやつらにとって肉でしかない。ギザギザにとがった歯をむきだして突進してくる。次の瞬間、顔面にするどい痛みが走った。皮膚と肉の一部がかじりとられる激痛。その直後、生傷に海水が強烈にしみた。絶叫がほとばしる。が、ガボガボと塩水が口中に入りこんで、悲鳴は外へ出ていかない。血の匂いのせいか、まわりに深海の生き物がよってきた。魚や海老、カニ、ヒトデや貝まで。ものすごい数だ。こんな暗闇のなかに、これほどの生物がいたなんて。


(やめろ。やめろー!)


 体じゅうを小さな痛みが襲う。一つ一つは小さいが、それが何十、何百と重なり、どこが痛いのかもわからない。地獄だ。目の上を赤いヒトデが這ってくる。星型の裏の触手の一本ずつまでハッキリと見えた。目を閉じることもできず、まぶたの裏を這うその感触に耐える。やがて、グシャリと眼球がつぶれるのがわかった。人間は平気で魚介類を食しているが、それに対する海の生き物たちの怨みを全身で感じた。何度、気絶したかわからない。


(やめろ……やめてく……れ)


 そのうち、聖王の意識は海のあぶくとなって消えた。

 暗転——



 *



 目をあけたとき、一瞬、自分がどこにいるかわからなかった。すっかり溺死体の気分を味わっていたが、ふつうに生きている。見おぼえのない古くさい和室だ。黄色っぽい蛍光灯がついている。座卓に仏壇。たくさんの遺影。そうだった。禁域の家に招待されて、麦茶を飲んだあと眠りこんでしまったのだ。腕時計を見ると夜の十時をすぎていた。座卓につっぷして、心も寝ている。

 おかしい。やっぱり、眠り薬を飲まされたんじゃないだろうか? あの麦茶。味は変じゃなかったが、そうでなければ、二人して眠りこけた理由がわからない。あのとき、三時すぎだったはずだから、七時間も寝ていたのだ。


「おい、心。起きろ。心」

 肩をゆさぶると、ヨダレをたらしながら目をあけた。

「あれ? えっと……いつのまに寝ちゃったかな?」

「おれもだよ。たったいま、目がさめた」

 照明はついていたが、茶菓子はもう片づけられている。老人も龍夜たちを送っていった男も見あたらない。今のうちに逃げたほうがいいだろうかと考える。しかし、まだ杏樹の行方がわからない。迷っているうちに足音が近づいてきた。

「やあ、どうも、どうも。目がさめたかね? よっぽど疲れちょっただね。今日はもう遅いけん、うちに泊まったらどげだ? 晩ご飯に刺身作ったよ」

 さっきの五十代の男と老人が現れる。見るからに新鮮な刺身の大皿を持っていた。それらが座卓にならぶと、ふがいなくも腹の虫が鳴く。麦茶を飲んだせいで眠りこんだのだから、この食事にも睡眠薬がまぜこんである可能性は高い。さっき、深海で魚のエサになったのは、金縛りに抵抗して見た夢だろう。でも、まわりで話していた男たちの声は夢ではなかった気がする。それとも、あれも食用ガエルを見たせいで刺激された聖王の妄想なのだろうか?

「これ、食用ガエルじゃないですよね?」

 たずねると笑われた。

「カエル? ああ、坪庭のやつか。あれは半野良の猫にやるエサだわね。まさか人間に出すわけないがね」

 そういわれれば納得するしかない。目の前の刺身はどこから見ても魚の切り身だ。心は疑いもなく大喜びしている。

「わあ、スゴイ。美味そう。いいんですか? 急におじゃまして、その上、こんなご馳走になって」と、刺身にとびつく。脂ののった甘鯛だろうか? たしかに美味そうだ。旅館でも、なかなか、ここまで活きのいい刺身は出ない。港からついさっき仕入れてきた感じだ。心はバクバク食べているが、急に寝落ちするふうもない。薬は仕込んでなさそうだ。

「じゃあ、ご厚意に甘えさせてもらいます」

 聖王も刺身を味わった。甘鯛やヒラメ、イカの刺身。クラゲとワカメの酢の物。魚のあら汁。サザエ飯。どれも新鮮で美味い。なんだか、これを食べたことで天罰を受けそうな気さえする。美味すぎて罪悪感をおぼえる。

「一杯、どげなかね? このへんの地酒だよ」

 さしだされるお猪口ちょこを心はなんの警戒もなく受けとる。聖王はさすがに酒はマズイと思った。今度は酔わせて寝入らせるつもりなのだと悟る。

「うわぁ、酒も美味い。水みたいにスルスル飲める。これ、いい酒でしょ? まさき、おまえももっと飲めば? 僕だけ食いしん坊みたいになってるだろ」

「いや、おれ、下戸だから」

「まあまあ。ちょっとくらいいいわね」

 一、二杯もらうと、もう飲めないふりをした。心はあっというまに酔っぱらってしまい、畳にうつぶせる。聖王も酔って眠気に襲われるていを装う。

「友達はつぶれてしまったね。ここに布団運ぶけん、このまま寝てしまぁだ」

「何から何まで、すみません。えっと……お名前うかがってなかったですね」

「高木ですわ」

「高木さん。ありがとうございます。じゃあ、一泊させてもらいます」

 布団を運ばれ、すぐ目をつぶった。心はほんとにイビキをかいているので、高木親子は疑っていないようだ。まもなく、廊下の明かりも消えた。

 このまま何も起こらなければ、さっきのアレは金縛りが見せた悪夢だ。高木親子はただの親切な人たち。杏樹はきっとどこかで迷子になって保護されているのだ。スマホをなくして連絡できないでいるに違いない。そうであればいい。

 もちろん、そんなのはただの願望だ。まもなく、ボソボソと話す高木親子の声が暗闇から、かすかに届く。

「もう寝たか」

「蛇屋が一人欲しいいっちょったぞ。あそこは再来年、ニエ番だけん」

「タダではやれんわ。うちがもてなしたけんな」

「娘の代わりになるなら、蛇屋も百万は出すだろう」

「逃げられんやに、寝ちょううちに運んだがいいだないか?」

「蛇屋もようさんがおらんと、おっさん一人じゃ、よう運ばんでしょ」

「洋さんはいつ帰って来るかね」

「今日にかぎって残業しちょうなと。もうこっちにむかっちょうらしいわ」

「さきに誓文、書かすだぞ。渡いたあとで払わんいいだすかもしれんけんな」

「わかっちょうわね」


 やはり、そうだ。聖王たちをニエにするつもりだ。今夜のうちに逃げださなければ、監禁されたあげく、殺され、冷凍肉にされてしまう。

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