第44話 禁足地で



 今日は祭りでもないし、今年のニエ当番でもない。それにもう集落をすて、父は出身地を偽って生きている。ニエ代の必要は、すでにないだろう。だが、可愛がっていた杏樹が亡くなり、ニエにするつもりで育てていた聖王が生き残ったとき、父のなかで何かが壊れたのかもしれない。聖王が死ねば杏樹が生き返るとでも思っているような勢いで追いかけてくる。

「おまえが死ねば。おまえが死ねば。おまえが死ねば……」

 そうくりかえすつぶやきが聞こえる。


 暗い岩場を急いで歩いた。このままでは、どっちみち父に追いつめられる。むこうが岩場へおりたところで、背後へまわりこみ階段をかけあがる。車のキーがつけっぱなしなら強奪して逃げだせるのだが。

 でも、ここから逃げてどうなるのだろう? 相手は父だ。もう家には帰れない。帰れば殺される。父に見つからないよう一生、本名を隠して生きなければならないのだろうか? そうなれば、せっかく内定の決まった会社でも働けない。大学も行けなくなって、学歴もないまま、その日暮らしだ。犯罪者のように逃げ隠れしながら、貧しく生きていかなければならなくなる。それなら、いっそ、ここで父を——


(コイツのせいで杏樹は死んだんだ。母さんは親父をかばって、おれが悪いと思いこませようとした。だったら遠慮なんかいらないだろ。なんで自分の親に、ここまで人生だいなしにされなくちゃいけないんだ?)


 聖王は決心した。杏樹がすでに死んでいたという悲しみや、親にだまされ、殺されそうになった過去を思いだし、感情の制御がきかなくなっていた。

 危険だが、懐中電灯を消し、父の持つ光を頼りに背後へまわる。途中で父も聖王の魂胆に勘づいたようだ。むこうも照明を消し、あたりは真っ暗闇になる。月光だけがかすかに、ゆらゆらとゆれる海面をきらめかせる。

(どこだ? どこにいる?)

 立っていると姿を見とがめられる。聖王はかがみながら移動し、父を探した。暗闇のせいで、さっぱりわからない。呼吸や気配は波音で消される。さらにゴツゴツした岩がたくさんあるので、多少の凹凸はシルエットにとけこんでしまっていた。

(どうすればいいんだ?)

 身動きとれないですくんでいると、遠くのほうで黒い人影が立ちあがった。父だ。むこうはこっちに気づいていないのかキョロキョロしている。チャンスだ。聖王は急いで、そっちへむかおうとした。が——


「ギャーッ!」

 とつぜん、思いがけず近くから悲鳴がとどろく。父の声だ。

(えっ? なんだ? だって今、あっちに人がいたよな?)

 まったく異なる方向だ。むしろ、悲鳴は聖王の背中をとる形で、ごく近くからあがった。追いつめられそうになっていたのは自分のほうだったのだ。危なかった。父の絶叫はまだ聞こえる。

「なんだ、おまえ! やめろ。離せ。おれをどうする気だ? ニエか? おれはニエじゃない! ちゃんとニエ代を用意して——やめろ。やめろォーッ!」


 恐ろしかったが、聖王は思いきって、懐中電灯をつけた。光をそっちにむける。父がいくつもの人影に捕まり、手足をかじられていた。

(人魚だ……)

 父は生きたまま人魚たちに食われている。

 ここは禁足地だ。ニエを捧げるときしか人は入ってはならない。なにしろ、人魚の棲家だから……。


 父はもう助からないだろう。あれだけの数に食われたら。もう両手は残っていない。腹や肩にも食いつかれている。立っていられず岩場にころがったところを、さらにどこからかやってくる人魚たちに覆いつくされた。もはや悲鳴も聞こえない。ときおり、ゴロゴロと変な音が潮騒のあいまから漂ってくる。


「何してるの? このうちに逃げて!」


 とつぜん、人の言葉を聞いて、聖王はわれに返った。目の前に浴衣を着た少女が立っている。フランス人形のような西洋風の美貌に長い黒髪。蛍だ。

「早く!」

 手をにぎられると、冷やりとした。独特の吸いつくようなやわらかい感触。前に高木親子から助けてくれた少女と同じ……。


「君は……人魚か?」

 よく見れば浴衣の柄も金魚だ。ニエにささげられた少女。

「そんなこと、いってる場合じゃない」

 まあそうだ。父を食べつくしたら、人魚たちは次に聖王を襲うだろう。あわてて走りだす。いや、走りたいが、満ち潮で海面が上昇しているので、岩場と潮だまりの区別がつかない。慎重に一歩ずつ足元をたしかめざるを得ない。

 ふりかえると、人魚たちが立ちあがっていた。その足元にはもう人間の形のものは残っていない。小さな山は骨か。

(思いだしたぞ。前もこんなことが……祠に閉じこめられて、そのあと一人にされて……夜中かな? 疲れて寝てたら、外から扉がひらいたんだ。それで……)

 目の前に化け物が立っていた。あやうく祠をとびだして逃げまどった。そして、岬の端に追いつめられて……?


 こんなときに頭が痛い。立っていられないほどズキズキする。

「かんばって! 走って!」

 蛍に励まされ、どうにか足を運ぶ。しかし、もはや限界だった。よろめく足が小さな岩のでっぱりにひっかかる。海面になげだされるのと、記憶のなかの少年の聖王が岩場から足をふみはずすのが同時だった——

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