第51話 八百の姫
「巫女は死んでるんじゃなかったのか? コアが君のなかへ移ったっていったろ?」
「彼女は長い期間、コアと同居してたから、コーティングされていた部分に粘菌成分がしみついてる。その成分が完全に消えるまでは死体を動かすの。成分には防腐効果もあるから、あの状態でも数百年は……」
はたして巫女に生きていたころの記憶が残っているのかどうか。死にぎわの強い感情に粘菌成分が呼応しているのかもしれない。それによって憎悪だけが増長している。蛍を見ても、認識できているのかわからない。ましてや、聖王のことなど、憎むべき人間と見わけがつかないだろう。いきなり手をつかまれた。蛍や高木親子から助けてくれた少女のような、ひんやりして心地よい餅肌ではなかった。ガサガサに乾ききり、一部は肉が落ち骨がむきだしになっている。枯れた木の枝のような感触につかまれたとたん、全身が炎に包まれた。
(熱い——!)
さまざまな映像が浮かんでは消える。はるか昔、大地と一体となって暮らす素朴な人たちのなかに生まれ、栗を育て、貝をひろい、魚や猪を狩り、万物に宿る八百万の神々に祈り、そしてある年の秋、海神にささげられた。深い海に沈み、青い宮殿に招かれ、海神の花嫁となり、そのあと年をとらなくなった。長い、長い時を生きた。その長い生の終わりに、これほどの苦痛と屈辱を受けようとは——
(熱い。痛い。憎い。痛い。イタイ。イタイ。ニクイ。イタイ。アツイ。ニクイ。ニクイ。ニクイ。ニクイ。ニクイ。ニクイ。ニクイ。憎い。憎い憎い憎い憎い憎い! 憎い! 憎い!)
彼女が受けた拷問のすべてを一瞬で追体験した。もう自分の意識をたもっていられない。このままでは、彼女の憎悪のなかに吸収され、埋没してしまう。聖王が消える。
——ともに滅ぼそうぞ。憎き者ども。森羅万象。この世に存在するすべての悪しきもの。焼き滅ぼせ。
ああ、それもいい。どうせ、くだらないことだらけだ。親父もお袋も、おれを最初から自分たちの身代わりにする目的で生んだ。おれは誰からも愛されることなく、ただこの命を奪われるためだけに生まれた。だったら、復讐して何が悪いんだ?
紅蓮の
「お願い。この人をつれていかないで。八百姫。あなたはわたし。わたしはあなた。あなたの想いはちゃんと、わたしのなかで生きてる。あなたの大切なもの、大切な人、絶対に忘れない。だから、わたしの大事なものは、あなたにとっても大切なはず。奪わないで!」
聖王のなかで、二つの想いがぶつかりあう。赤と青、白と黒、愛と憎悪。無垢と穢れ。永遠と刹那。善と悪。両手にそれぞれ、今の蛍と過去の蛍がすがりついていて、わたしと来てくれと主張している。ステレオ音声が微妙にズレているように、声が両側から二重に聞こえた。
——聖王。わたしを選んで。
——わたしとともに滅ぼすのよね?
どちらも大切な人だ。だって、同じものなのだから。両方、蛍だ。彼女たちはたしかに同一の存在として、この世にある。
(蛍……)
選べない。どちらも愛しい。ただ一つわかるのは、憎悪にまみれた彼女をこのままつきはなせば、おそらく、永遠に救われない呪いの根源と化するだろうということ。怨念のかたまりとなり、この世の果てまで二度と癒されない。誰にも解けない強力な呪念となる。
愛する人とともに、ただ生きたい。平穏に、かぎられた寿命しかなくても、それだけで幸福。だけど、その一方で、呪われ続けるものへと堕ちるもう一人の彼女をここで誕生させてしまうのは心苦しい。
(おれが二人いたらな。両方に一人ずつ、あげられたのに)
——わたしと来て。
——いいえ。わたしと。
心が二つに引き裂かれる。これ以上この状態が続けば、聖王の精神が崩壊する。自分でもそれを感じたとき、一方の手が離れた。
「蛍……?」
「あなたが壊れるくらいなら、わたしは……」
泣きながら、蛍は聖王の手を離し、あとずさる。行ってしまう。感情は正直だ。その瞬間、聖王はもう一方の手をふりほどいていた。あわてて蛍を抱きしめる。
「行くな!」
「聖王……」
それを見て、古代の巫女の残骸は、くるりときびすを返した。いずこへか去っていく。永遠の呪いとして。
「……これでいいのか? あの人は祓えない怨霊となってしまうんじゃないか?」
「わたしの影。わたしの存在の一部が、つねに呪いをふりまくものとなる。いつどんなときも、心の片すみに真っ黒なカビのように、深い憎悪がしみついている。あの肉体が完全に滅ぶまで。それでも……いいの。あなたが呪われた存在になるなんて、たえられない。壊れるよりはましだけど、やっぱり、今のままのあなたが好き」
蛍は聖王の胸で泣きじゃくった。もう少しで自分が悪霊になるところだった。そう思うとゾッとする反面、孤独にさまよう彼女が哀れでもある。いつか、救えたら……そんな思いは驕りでしかないかもしれないが。
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