第52話 最後の秘密



 気をとりなおして走る。階段をかけあがると、炎がすぐそこに迫っていた。ようやく裏口に到達した。そこには人魚にかまれてゾンビのように徘徊する警備員がいた。しかし、蛍がいるせいか襲ってはこない。どこか近くで小さな爆発があった。プロパンガスでも引火したのか。

 裏口のドアをあけると、山肌が目の前に迫っていた。そういえば、この建物は山に食いこむように建っていたのだ。すぐよこにトンネルの入口がある。なかがオレンジ色に光っていた。まだ電力が生きている。

「ここを通っていけば、新道に合流するから」

「急ごう」

 聖王はにぎった蛍の手を強くひっぱる。なんとか逃げられた。ここさえ通りぬければもうなんの心配もいらない。



 ——おにいちゃん。待って。待って。


 ——おまえは帰れよ。危ないんだから。



 あの記憶は作られたものなのに、なぜかふいに脳裏に浮かびあがる。

(あれ? この子。なんか……?)

 髪の色がもっと茶色くて、ゆるくウェーブしてたら……杏樹にそっくりなんじゃ? 杏樹が成長したら、こんな感じに……?


 戸惑っていると、背後から誰かが追ってきた。

「逃がさない……ぞ」

 梶原だ。人魚にかじられ、血まみれになりながら、しつこく追ってきたのだ。片目を失った半面は皮膚が食いちぎられ、頭蓋骨の一部が見えていた。その状態で人間は死なないものなのか? 脳に損傷がなければ平気なのか。いや、そうではなかった。カラッポになった眼窩がんかから、青白い粘液がチョロチョロと動いている。

(コイツ、人魚になりかけてる)

 それで、ここまで来られたのだ。粘菌どうしはエンパシーがあるから攻撃されない。人魚になりかけた時点で、梶原も仲間として認識されたのだろう。でもまだ意思を持って、こっちに銃をむけている。自分が人魚になりつつあると、自覚がないのかもしれない。

「こっちに来い。おれから逃げられると思うな? おれは……成功させるんだ。必ず粘菌の不死性を普遍化し、世界で最初のフィメール型スーパーフュージョナーになってみせる……」

 その野望を持って研究していたわけだ。実験台にされた人々は、おそらく不当に拉致したり、金でだましてつれてきたのだろう。非道な実験の数々はこの男自身の踏み台だった。八百姫でさえも。だからこそ、狂信的に研究に打ちこめたのだ。

 でも、ようすがおかしい。適合者なら、皮膚へのダメージは粘菌の力で再生するはずだ。呼吸もやけに荒い。何度か自分の意思ではないように、まぶたがピクピクとケイレンする。銃をにぎる手が大きくふるえていた。


「……さあ、来い! 杏樹——」


 梶原の口から衝撃の言葉が発された。聖王の手のなかで、ビクリと蛍の手がこわばった。蛍の恐れるような視線が聖王をうかがう。

「……杏樹?」

「聖王、わたし……」

 すると、梶原が瀕死の形相で高笑いする。

「気づいてなかったのか? そいつはおまえの行方不明になった妹だよ。同じ両親の遺伝子を持つおまえは、スーパーフュージョナーの確率がきわめて高い。だが、最初の男性型スーパーフュージョナーはこのおれだ! おまえが実験に成功したら、切り刻んで、融合のメソッドを確立……杏樹。おまえはおれのもの。こっちへ来い。来なければ、兄を撃つ!」


 ピストルの弾丸よりも、その事実が聖王を刺した。蛍は杏樹だった。子どものころ、海に落ちて死んだはずの妹。いや、あのとき死ななかったのだ。遺体はあがらなかったと父もいっていた。海中に沈んだ杏樹は、聖王同様にあの洞窟へ流されて……そして——


「……そうか。君が杏樹だったのか」

「……」


 杏樹は泣いて言葉にならない。彼女は知っていたのだ。自分たちが兄妹だと。でも、同罪だ。彼女だけを責められない。知らなかったとはいえ、実の妹と愛しあってしまった。

 杏樹は聖王のなかに生まれた罪の意識を敏感に感じとった。悲しげな瞳で微笑む。

「ずっと、お兄ちゃんのお嫁さんになりたかった。ごめんなさい」

「……」

 返事に困っているうちに、杏樹は聖王の手をふりきった。


「杏樹!」


 微笑みを残して、杏樹は梶原にとびつく。裏口のドアのむこうへ梶原を押し倒した。梶原は深刻な人魚化に見舞われ、ふらふらしているので、杏樹の力でも押さえられている。

「行って! 聖王は生きて」

「杏樹……」

 杏樹は何かつぶやいた。が、その声は聞こえなかった。激しい爆発音が重なる。火炎がうずまき、杏樹の姿を隠す。近づこうとしたが、二人のあいだに、またたくまに炎の壁ができた。


「杏樹! 杏樹ー!」


 もう見えない。手を伸ばしても、炎にあぶられるだけ。あまりの高熱にあとずさりつつ、それでもしばらく、聖王は待った。杏樹が戻ってきてくれるのを。

 やがて遠くで拳銃の音が響いた。ただ一度だけ。

 また守れなかった。それは聖王の大切な人が息絶える音。おそらくは、自らの手で……。


(杏樹……)


 いっしょに行こうといえばよかった。こんなに半身を引き裂かれそうなほど胸が痛むなら。同じ罪を二人で背負っていこうと。妹でもいいから、愛していると。


 一人、トンネルを歩く。幼子のように泣き叫びながら……。

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