第53話 無量大数
*
一年後——
自宅のリビングで爪を切る聖王に、母が声をかけてくる。
「会社にはなれた? 大会社はたいへんでしょ?」
「そうでもないよ。先輩は丁寧だし、課長も話がわかる」
「お盆は休めるの?」
「うん」
「お父さんが急に亡くなったから、あなたには頼ってばっかりでごめんなさいね。お母さん、もうちょっとシフト増やしてもらったほうがいいかな?」
「別にかまわないよ。借金があるわけじゃないんだし、親父の生命保険だっておりたんだよね? それよか、蘭樹、もうすぐ塾終わりじゃないの? 駅まで迎えに行こうか?」
「じゃあ、頼むわ。ありがとね。あの子、あなたが大好きなのよ。わたしのこと思いだしてくれたって、この前、泣いてたのよ」
「そう」
蘭樹ももちろん可愛い妹だ。でも、特別に愛しているわけではない。母や妹と暮らすのは、世間の注目をさけるため。あの事件のあと、二津野町はたいへんなさわぎだった。山火事だと思われた場所から所有者のハッキリしない施設が見つかり、その使用目的がまったく謎だったのだ。マスコミが押しよせた。しかし、そこが研究所だったことは誰にもわからなかった。建物の外郭を残し、ほとんど焼けおちてしまっていたからだ。そのなかで、かつて何が行われていたのか示すものは何もない。
また、研究所で起きた爆発のせいか、近くにあった、あの海中洞窟へ続く入口も崩落し、結果的に人魚の秘密は守られた。戸の内も二津野も、もちろん、その周辺の者たちも、口をかたく閉ざし何も語らない。一年がたち、ようやく、山間にふだんの平穏が戻りつつあるという。あの山里はこれからも変わらない。ゆりかごのような潮騒につつまれ、けだるく、おだやかな神話のなかで眠る。
事件のあと、一度だけ、聖王はあの場所に行ってみた。杏樹の痕跡はどこにも見つからなかった。それらしい遺体はない。あの銃声はほんとに杏樹が自害したときのものだったのか……?
いや、知っていたんじゃないかと思う。最初は罪の意識にさいなまれたとしても、長い時がすぎれば、必ず聖王は彼女のもとへ帰っていくと。なぜなら、永劫をともにするのは彼女しかいないのだから。
スーパーフュージョナー。
(爪の伸びが遅いなぁ。年に一ミリ伸びるかどうかだ。髪はヘアスタイル変えてごまかしてるけど、家族の手前、伸びてるふりするのはめんどうだ)
聖王が自分の身の変化に気づいたのは、あの驚異的な経験をして自宅へ帰ってきたあとだった。これまでは成長期だったから気づかなかった。成人し、身長や体重に大きな変動がなくなると、爪や髪の伸びも遅くなるのだと。
(今はいいさ。一年や二年で見ために違いが出るわけじゃないし。十年、十五年なら、「おまえ、いつまでも若いな」ですむ。でも、そのさきは? わざと老けたように見せるのは難しいだろうな)
決定的に怪しまれるのは四十年後だろう。六十すぎても二十歳のように若いのはおかしい。まあ、そのころにはものすごい若返り技術が開発されてるかもしれないが。
(八百比丘尼って苦労しただろうなぁ。当時なら偽名使って、別人になりすますのは今よりかんたんだっただろうけど)
ちょっと顔の似た人物のマイナンバーカードを奪って、なりすますか。それも血液型など一致していないと、すぐにバレる。なかなか難しい世の中だ。
(まあいいさ。身の処しかたはまだまだ考える時間がある。一番いいのは自分の息子になればいい。二十歳くらいまで育てたあと、殺して身分証をもらう。それなら顔も似てるだろうし。外国で暮らせば、まわりは自分を知らない。家族とも顔をあわせる必要なくなる)
そんな算段をする。それでも、そんな方法が通用するのは、ほんの数百年かもしれない。きっと、しまいにはどうでもよくなってしまう。その日暮らし。気ままに旅をする。それもいい。ことに愛する人といっしょなら。
(おれには、おまえ。おまえには、おれしかいない。おれたちはこの世で二人きりの完璧な人類だ)
死なない人間。
いや、人魚?
杏樹は気づいていたのだ。子どものころ、ニエ代にされたとき、すでに聖王が人魚になっていたのだと。海に落ちて溺れ、あの洞窟に迷いこんでコアにふれた。キレイな花のようだったから、子どもが好奇心を持つのは当然だ。兄と妹は同じ日に人魚になった。だからこそ、コアは三つあると杏樹は答えた。一つは洞窟の結晶。二つめは杏樹。そして、最後の一つは聖王が有している。
この世に二人だけの新人類ともいうべき存在。兄妹の婚姻が、今の社会ではゆるされなくても、もっと大きなカテゴリでみれば違ってくる。罪の意識にさいなまれるのは最初だけ。きっと百年も必要ない。ほんの二十年か三十年だ。そのあとは恋しくなる。たまらなく。残された永劫の日々をともに暮らすのは、その人しかいない。
(迎えに行くよ。そのときまで待っててくれ。おまえもそのつもりなんだろ? 杏樹)
わかっている。
目をとじると、月光のように青く輝く花のもとで、眠りながら、ひそやかに待つ美しい少女が見える。
人魚姫が眠り姫になった。その眠りをさますのは——
了
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