第10話 実存の人魚
人魚なんてものがほんとにこの世にいるのか?
西洋の人魚の正体はジュゴンあるいはマナティだといわれている。日本の人魚はそれともまた別物らしい。江戸時代の妖怪の本によれば、今でいう人面魚のようなものだ。魚の体に人間の頭がついている。
有名なのは
地方によっては伝説というには生々しく、どこそこの村のなんという娘が八百比丘尼になり、最期はこれこれの洞窟に入定した、などと詳細に残っている。だが、同時に見せ物として八百比丘尼を騙る人々がいたという話もある。おそらく、そうした人が年齢を詐称し八百比丘尼と名乗ったまま亡くなったのが真相ではないか。聖王はそう思っている。
——はいはい。〇〇の村で生まれて、今年で八百歳になります。おとっつぁんが庚申講で魚を土産にもらってきましてね。食おうとせんのですよ。まだ八つでしたので、もったいなかぁと食ってしまいました。それが人魚の肉だったようで、はい。とうの昔に家族や知りあいは亡くなり、今では一人さみしく放浪しております。
語りなれた老婆のそれは芸能の一種だったろう。そんな想像が頭に浮かぶ。
しかし、さっきのアレはそんなものじゃなかった。あれが人魚だろうか? いや、魚女? 伝説の魚女なら海の妖怪だ。まだ最後まで読んではいないが、海女房の一種だろう。
妙に魚くさかったあの集団。それに着ているものがボロボロで、なかには古い着物みたいな者もいた。知性にも問題があった。あれが人魚だとしたら、魚女の伝説そのものの妖怪? この現代でほんとに妖怪なんて実在するのか? 今風にいえばUMAにあたるのか……。
聖王たちが社の床下から這いだしたときには、すでにあの集団の姿はなかった。だが、新しい足跡がたくさんついている。境内の地面は砂地なので、とてもやわらかく、足跡が残りやすい。この神社にいつもたくさん足跡がある理由は今のでわかった。おそらく、毎朝、彼らがここへ来ているからだ。
「人魚だって? アレが?」
「……」
夏輝は青い顔をして、もう何も答えない。と思うと、急に走りだして石段をかけおりていった。聖王は集団を追うべきか迷う。今ならひきとめる人はいない。もしも聖王がいなくなれば、夏輝は誰かに知らせてくれるだろうか?
(やっぱり、おかしいぞ。この町。夏輝の口調は人魚がいることにはなんの疑問も持ってなかった。ただ自分の目で見てしまったから、おどろいただけだ。つまり、このへんの人はアレがなんだか知ってる)
魚女の伝説の場所は魚崎だ。あのトンネルのむこうには行っちゃいけないといわれた場所。あそこで泳いじゃダメだと教えられた岬。さっきのあの連中の正体がなんなのかわからない。が、何かあるとしたら禁域がその中心ではないだろうか? 杏樹は魚女の伝説を調べるうちに、そこへ近づきすぎてしまったのでは?
(行ってみよう。魚崎へ)
少なくともトンネルのむこうへ。行って調べてみるべきだ。もしかしたら、杏樹はそこで監禁されているかもしれない。そうであってほしい。それなら、妹はまだ生きている。
神社の奥からさっきの集団が消えた方向へ走ってみた。しかし、獣道の入口は見つけたものの、途中ですぐにとぎれてしまった。連中は茂みのあいだをムリヤリつっきっているのか。わかりにくい特殊ルートがあるのか。しかたなく、急いで叔父の家へ帰る。叔父と叔母は仕事で不在だ。叔母は午後からのパートである。夏輝を探したが隠れているらしく見つからない。聖王に問いつめられるのがイヤだからだろう。
もういい。叔父たちに聞いても、きっと、はぐらかされるだけだ。自分で調べに行ったほうが早い。禁域とはいえ、しょせんは人間の住む土地だ。部落的な何かで周辺の地区の住人に忌み嫌われてはいても、言葉の通じる日本人が住んでいる。それなら、よそものだからって、いきなり斧を持って追いかけられるわけではあるまい。
もともと着替えはデイパックに入っている。荷物は全部、そのなかだ。あとは飲みかけだったペットボトルの中身をすて、水道水を入れなおす。ペットボトルは二本だ。多めに買ってあってよかった。この炎天下を歩きまわるなら、そのくらい飲料水があっても多すぎることはない。何時間かかるかわからないし、これから行く場所には自販機もないかもしれない。もしものことを考え、食卓に置いてあったバナナを一本もらった。それも鞄につめ、玄関でスニーカーをはいていたときだ。
「どこ行く気?」
ふりかえると、怒りをふくんだ目つきで梨花が立っている。
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